平坦な日々が続いています。仕事もまずまずですけど、ワクワクして夜も眠れないというようなことはなかなか起こりませんね。それで、この間、買って来た古本を読み出しました。司馬遼太郎と般若心経以外にもいろいろ雑多に買いました。
一冊は、物理学から転向した科学哲学者、マイケルポラニーの『暗黙知』という本。これは「内田樹の研究室」でしょっちゅう出てくるので覚えていて、ふと見ると眼の前にあったので買いました。1960年ごろのYale大での講義録のようです。われわれには、知っているという自覚なしに知っているものがあるとかいうような話のようです(まだ半分しか読んでません)。方法的懐疑によって発達して来た近代科学ですが、実際の科学の現場では、多くの発見が、根拠の明らかでない「直感」とか「ひらめき」から生まれて来ています。私は、以前に「practical intuition (Laura Day)」という本を読んで、「直感」として現れてくる自覚的でない知識を使う練習をしたことがあります。訓練すると誰でもある程度の精度で未来が読めるようになりますが、私はどうもドンカンなようで、余り上達しなかったので止めてしまいました。暗黙知というのは「直感」の理論付けなのかもしれません。
それから、「構造主義生物学」の池田清彦さんの自伝風の本、「だましだまし人生を生きよう(新潮文庫)」。マイケルポラニーやデイビッドボーム、そして池田さんのように、最初は普通の科学研究者であったのに、科学という方法論そのものに疑問を抱いて、つい(道を踏み外して?)哲学方面にいってしまった人の話は、面白いと思うのですが、隔靴掻痒の感が残ります。現代の唯物論に基づく「科学」という方法論の限界に対する批判は理解できるのですが、結局、哲学者ではない普通の研究者の私たちにとって最も重要な疑問、「それでは(「科学」以外に)世の中を理解するためのどんな代替方法があるのか」という疑問に対しては残念ながらまだ答えが無いということが、その理由かと思います。実際、実験科学者の人にとっては、科学というワク(限界)を前提として、その中でのゲームに参加する方が、科学というゲームの成り立ちや矛盾を云々するよりも、面白いと思っているわけですし。この池田さんの本は、科学の話は余りなく、比較的個人的な記録です。本にちょっとだけ出てくる人の中では元東大薬学部教授で「バイオホロニクス」理論の本を書いている清水博さんと神戸大理学部の郡司幸夫さんに会ったことがあります。清水さんは東大退官後、金沢工科大学の支援で、日本橋に「場の研究所」というのを作って活動されていました。随分前にその研究所を訪れた時、天丼を驕ってもらいました。それっきりですが、まだ活動されているようです。郡司ペギオ幸夫さんは、風邪をひいて風邪薬を貰いに見えた時に会ったので、これは殆どスーパーで偶然見かけたというのとかわりないので「会った」とは言えないですね。どうしてペギオという妙なミドルネームを使っているのか聞いてみましたが、「特に理由はないです」と面倒くさそうに言われました。(今、Wikipediaで調べてみると、子供にペギオと名づけたかったが、奥さんに反対されたので自分が使っていると書いてありました。なぜペギオと名付けたかったのかは不明)
あと、科学哲学ではなく宗教に近いですが、元発生生物学者、柳澤佳子さんの自叙伝風の本、『命の日記』。柳澤さんの名前は知っていましたが本は読んだことはなく、これを読んで初めて、この方が原因不明の病気で長年苦しんでこられたこと、その悩みと苦しみの中で神秘体験(悟りの体験?)をされたことを知りました。
哲学や科学はゲームであり、その制限の範囲で面白みも難しさもあるのだと思いますが、宗教的な体験というはそのワクをはずれたところにあるのだろうと思います。だから私は、John Templeton Foundationなどが掲げる「科学と宗教の融合」とかいう理屈が理解できません。
ところで、日本に国民主権を取り戻す、次の市民デモは、11/20は大阪御堂筋でデモが計画されています。(http://www.kyudan.com/index.htm)、
新潟でのデモは11・23(勤労感謝の日)のようで、下の予定です。
●「マスコミの偏向報道に抗議する新潟デモ」●
――権力とマスコミの横暴に抵抗する国民の会――
日時 : 11月23日(火)
集合 13:45pm
開始 14:00pm
集合場所 : 新潟駅万代口 石宮公園
一冊は、物理学から転向した科学哲学者、マイケルポラニーの『暗黙知』という本。これは「内田樹の研究室」でしょっちゅう出てくるので覚えていて、ふと見ると眼の前にあったので買いました。1960年ごろのYale大での講義録のようです。われわれには、知っているという自覚なしに知っているものがあるとかいうような話のようです(まだ半分しか読んでません)。方法的懐疑によって発達して来た近代科学ですが、実際の科学の現場では、多くの発見が、根拠の明らかでない「直感」とか「ひらめき」から生まれて来ています。私は、以前に「practical intuition (Laura Day)」という本を読んで、「直感」として現れてくる自覚的でない知識を使う練習をしたことがあります。訓練すると誰でもある程度の精度で未来が読めるようになりますが、私はどうもドンカンなようで、余り上達しなかったので止めてしまいました。暗黙知というのは「直感」の理論付けなのかもしれません。
それから、「構造主義生物学」の池田清彦さんの自伝風の本、「だましだまし人生を生きよう(新潮文庫)」。マイケルポラニーやデイビッドボーム、そして池田さんのように、最初は普通の科学研究者であったのに、科学という方法論そのものに疑問を抱いて、つい(道を踏み外して?)哲学方面にいってしまった人の話は、面白いと思うのですが、隔靴掻痒の感が残ります。現代の唯物論に基づく「科学」という方法論の限界に対する批判は理解できるのですが、結局、哲学者ではない普通の研究者の私たちにとって最も重要な疑問、「それでは(「科学」以外に)世の中を理解するためのどんな代替方法があるのか」という疑問に対しては残念ながらまだ答えが無いということが、その理由かと思います。実際、実験科学者の人にとっては、科学というワク(限界)を前提として、その中でのゲームに参加する方が、科学というゲームの成り立ちや矛盾を云々するよりも、面白いと思っているわけですし。この池田さんの本は、科学の話は余りなく、比較的個人的な記録です。本にちょっとだけ出てくる人の中では元東大薬学部教授で「バイオホロニクス」理論の本を書いている清水博さんと神戸大理学部の郡司幸夫さんに会ったことがあります。清水さんは東大退官後、金沢工科大学の支援で、日本橋に「場の研究所」というのを作って活動されていました。随分前にその研究所を訪れた時、天丼を驕ってもらいました。それっきりですが、まだ活動されているようです。郡司ペギオ幸夫さんは、風邪をひいて風邪薬を貰いに見えた時に会ったので、これは殆どスーパーで偶然見かけたというのとかわりないので「会った」とは言えないですね。どうしてペギオという妙なミドルネームを使っているのか聞いてみましたが、「特に理由はないです」と面倒くさそうに言われました。(今、Wikipediaで調べてみると、子供にペギオと名づけたかったが、奥さんに反対されたので自分が使っていると書いてありました。なぜペギオと名付けたかったのかは不明)
あと、科学哲学ではなく宗教に近いですが、元発生生物学者、柳澤佳子さんの自叙伝風の本、『命の日記』。柳澤さんの名前は知っていましたが本は読んだことはなく、これを読んで初めて、この方が原因不明の病気で長年苦しんでこられたこと、その悩みと苦しみの中で神秘体験(悟りの体験?)をされたことを知りました。
哲学や科学はゲームであり、その制限の範囲で面白みも難しさもあるのだと思いますが、宗教的な体験というはそのワクをはずれたところにあるのだろうと思います。だから私は、John Templeton Foundationなどが掲げる「科学と宗教の融合」とかいう理屈が理解できません。
ところで、日本に国民主権を取り戻す、次の市民デモは、11/20は大阪御堂筋でデモが計画されています。(http://www.kyudan.com/index.htm)、
新潟でのデモは11・23(勤労感謝の日)のようで、下の予定です。
●「マスコミの偏向報道に抗議する新潟デモ」●
――権力とマスコミの横暴に抵抗する国民の会――
日時 : 11月23日(火)
集合 13:45pm
開始 14:00pm
集合場所 : 新潟駅万代口 石宮公園
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