百醜千拙草

何とかやっています

コロナのあと(2)

2020-04-24 | Weblog
今回のウイルスで、街は静かになりました。社会活動が制限され、キャッシュフローが止まったたことで、あらためて、大切なのはフローであって通帳の数字の多寡ではないと感じました。

現在の金融システムにおいて、カネは無から作り出されます。その作り出されたカネは貸し出されて利息がつくという仕組みになっています。逆に言うと、貸し出すこと(だれかの借金)によってカネが作られ(信用創造)、その借金を返済することによりカネが消えるということになっています。国がする借金も同じことで、国が借金をすることにより、カネが作り出され、そのカネは公共事業などによって民間に流れます。ということで、国の借金は国民にとっては資産ともいえます。借金には利息がつくので、このやり方だとカネと借金はどんどん増えていくのですけど、それは数字の上だけの話なので、流通している現金そのものの量は変わりません。だから、リンカーンがやったように政府通貨を発行(これも数字だけの話です)して、借金を返せば、一瞬で国の借金は消えます。しかし、世の中には、そうしてもらっては困るという勢力があって、それでリンカーンもケネディーも暗殺されたと考えられていますが、それはちょっと別の話。

さて、資本主義、市場原理というのは、持てるものの理屈です。その理屈を持たざるものに押しつけるために、学校や体育会やさまざまな機会で、それを常識として受け入れるようにある意味洗脳されてきたのではないかと思います。現在の資本主義社会では命を含めてすべてのものに値札がついています。カネを出せば「いいもの」が手に入り、カネがなければ必要なものでさえ手に入らない社会です。高度成長期のように金持ちも一般人も右肩上がりに豊かになっている時はそれでもいいでしょうが、現在のように貧富の差が開いてきた社会においても、いまだに、みんながそれを常識だと思ってる。こういう社会が、正しいとか間違っているとかではなく、時代のコンテクストが変わっているのだから、それにあった別の社会のありかたがあってよいと私は思います。

若いころに南国の田舎で一週間ほど過ごしたことがありますが、土地の人はカネという点では貧しくても、私から見れば、豊かな暮らしをしていました。カネがなくてもモノを融通しあって生活していました。そんな「楽園」にやや近い生活を壊すのは、人間の欲望とエゴでしょう。欲望とエゴが向上心の原動力だと肯定的に見る人もおりますけど、私は賛成できません。言葉の響きはマシかも知れませんけど、向上心が必ずしも良い結果を産むわけではありません。結局はそれに欲とエゴがついてくるわけですから。

話を戻して、地上が楽園であったころ、インターネットもビデオゲームもなく、職業も身分も羞恥心でさえなかったころと、カネさえ出せば、いろいろと暇を潰すエンタテイメントがありラクをできるものがあるが、カネがなければ生きていくことができず、カネを得るために毎日終電まで働き、休日出勤をしないといけない現代と、どちらが幸せか、難しいところです。個人の好みもあるでしょうけど、たぶん、ベストはその間ぐらいにあるのではないかな、と思います。

さて、多くの人がすでに議論していますが、このコロナによって、サービス産業が主体の都市の経済は大きくダメージを受けました。多くの国で少なくとも一時的に社会主義的施策をとって、その住民を救済しようとしています。いくら自由主義、資本主義者でも、お客がいてこその商売、住民の多数が経済的困窮に見舞われている状態では売れるものも売れません。しかし、政府の救済措置は、住民の生活を支える目的であって、経済刺激政策ではありません。日本政府はこの辺を根本的に勘違いしている、というよりむしろ、国民の命でさえカネでしか計れないぐらい資本家の論理に洗脳されているのではないかと思います。(ま、彼らはグルですけどね) この支援は当面継続する必要がでてくるでしょう。となると、実際的なベーシックインカムを国レベルで試行するという非常に壮大な試みを期せずして行うことになるかも知れません。そのカネはこれまでどおり、信用創造で作ればいいです。なんなら、この際、法整備して、日銀券と交換できる政府通貨を作ればよい。国が形上、借金をすることでカネを作り出す。その借金は法律をチョイとかえれば簡単に消すことができるし、そもそも数字だけの借金ですから、永遠に返さないという手段も取れます。だから国が国民にカネを一律にバラまき続けることは可能だと思います。その上で必要な産業、食糧、衣料、インフラといったものが十分に供給されるようなシステムを考えればよいです。これまで、カネのために不必要に作られては廃棄されてきた食品を含む数々の製品の無駄を考えれば、かりに労働の金銭的インセンティブが減っても、無駄を省き経済的にダウンサイズすることで、住民の生活や社会活動に必要なものを供給していくことは可能であろうと思います。

国家レベルのベーシックインカムはプラスとマイナスでどちらかというと、私はプラスの方がはるかに大きいと思います。働きたい人は働く必要がなくても働くでしょう。ない方がよい仕事、詐欺的な商売や、人間の尊厳を売るような商売、は減るだろうし、経済的困窮が少なくなれば、うつや自殺も大幅に減ると思います。社会はスローダウンし、経済規模はもちろん縮小しますが、現在、世界3位の経済大国だといっているもの数字だけの話で、同じ量のカネをもとに借金をくりかえして数字上のカネを無から作り出しただけの幻にすぎないので、別に国民の経済状況が大国だというわけではないわけですから、経済規模が縮小しても、国民生活には大して影響はないだろうし、不必要な労働が減ってむしろ豊かになるのではないかと思います。

物やサービスの交換はカネによって触媒されるので、カネは人間の体に例えれば、体の細胞に栄養と酸素を運ぶ血液のようなものです。一定量の血液が途切れずに循環することが大切なので、カネも一定量が細部までグルグル回っているのが健康な状態であり、循環がおかしくなって貧乏人には回らず金持ちにたまるというようになれば、病気です(現在の日本)。やるべきことはカネを回すことであって、カネを増やすことではないです。困っている人は手元にカネが巡ってこないわけですから、カネを回そうとしてもできない、一方、カネ持ちは一人で使えるカネの量など知れていますから、回ってくるカネが鬱血状態で溜まっている。循環を促進するにはそういう人たちがカネの循環に寄与できるように、まずはカネ(現金 - 使えるカネ)を配ることでしょう。そうすることで溜め込んでいる金持ちもカネを出しやすくなる。お客が増えてカネの循環がよくなれば、不況にそなえてため込む必要もないので、鬱血も解消されると思います。

現在の詐欺的金融システムが世界的に存続している一つの理由の一つは、一般の人々の考え方にもあると思います。いまでも、世界の田舎にいけば、カネがなくても生きていける村はあります。日本人は勤勉であり、それは勤勉は美徳であるという価値観に支えられていると思います。「閑居して不善を為す」よりは勤勉な方がいいですけど、人間らしい価値を生み出す力は生活の余裕から生まれると私は思います。くわえて、「勤勉でないのはよくない」と自分が思うのはともかく、他人にその価値観を押し付け、非難するような行為が日本では容認されているようなのも問題だと思います。これは多分、日本に多いイジメ問題とも関連しているでしょう。

最初の一歩は、「働かざるもの食うべからず」というような考え方をちょっとあらためてみることではないかと思います。社会にはいろいろな事情で働きたくても働けない人もいるし、逆に休みも削られて過剰に働かされている人もいます。いろいろな人々がいろいろに生きることができる社会のほうがギスギスしなくていいです。働きたくなれば働き、働きたくなければ働かない、それでも暮らしていける社会がいいと思うし、その実現は可能だと思います。必要な産業、とくに農業などは、人々の生活が保証され自由な時間が増えれば、無料で働きたいという人は大勢いるでしょうから、社会は回っていくと思います。 最大の障害は人間の欲とエゴでしょうね。

思わず、長くなってしまいました。日本の国土で、自然を破壊せず、その住人を幸せに食わせていくことは可能だと私は思います。それには社会システムをちょっと変える必要があり、それは政治にしかできません。今の日本の政治、それが最大の障害であることは間違いありません。
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