百醜千拙草

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わかってもらうことの重要性

2007-04-19 | Weblog
研究計画書とそのクリティークを英語でやり取りすることについて数日前少し触れました。科学の成果は本質的には言語に依存するものではないはずですし、英語で書こうが日本語で書こうが、その価値に本来差があるものではありません。日本で論文にもならないこうした活動にそうした苦労をなぜする方がよいのかという点について書きたいと思います。これはやはり客観的実在を基本的に原則とする科学とは言っても、所詮は人間が作ったものだからであろうと思います。科学は基本的には何らかの法則を見つけるものですが、観察事実が仮に客観的実在であるとしても、法則そのものは観察者の頭の中にしか存在しません。そうした頭の中にしかないものをその他の多くの人と共有することによって、その価値が判断されることになります。科学の成果も芸術作品と同様にそれを鑑賞してくれる人が必要なのです。客観的事実というものは客観的事実であると判断できる主観があって初めて成り立つのではないのでしょうか。これは観念論や唯心論的な哲学的な意味ではなく、もっと単純な経験的事実としてもそう思います。そして経験的事実とは主観的に認められる客観的法則の実感と言っていいと思います。いくら大発見であると本人が思っても、大発見であることをアピールし、わかってもらえなければ、発見は無いのと同じです。そして人にわかってもらうことというのは、思っているより困難なものです。日本から出る論文は一般的にレベルが高くデータも美しいものが多いように思います。にもかかわらず、しばしばそれに相応の雑誌より下のランクの雑誌に載っています。論文の採否を最終的に決めるのは編集者ですが、論文のレビューをするのは同業者であり、多くの場合同業者は仲間であると同時にライバルでもあるわけです。論文の内容に加えて、レビューアやエディターの心理的要素が多分に論文採否に影響しているのは間違いないところです。仮にレビューアが著者に何の感情的な問題を持っていなくても、良くない英語で書かれているだけで減点だし、有名でない大学や研究室から出たというだけで更に減点されるわけです。そうした先入観や偏見を正していくには、本当の日本の研究を論文という製品面だけからでなく知ってもらうしかないと思うのです。
 高品質の車や電化製品を生産し、世界第二位の経済力を誇る国なのに、外国から見ると日本はおそらく「よくわからない国」、ひどければ「不気味な国」と思われていると思います。おそらくな日本の優秀さを知っているが具体的に人間レベルで日本がどんな文化をもつどのような国なのかはよく知らないような中途半端な知識人は、日本に対しておそらくネガティブな印象を持っているであろうと想像できます。これはやはりコミュニケーションの問題だと思います。「巧言令色少なし仁」、「不言実行」の儒教的道徳教育を受けた多くの日本人は、言葉によるコミュニケーションをやはり軽視する傾向があるような気がします。「自分ではしゃべらない、理論にしゃべらせる」といった日本人物理学者がいましたが、こういう「美学」を尊ぶ態度こそが、「何を考えているかよくわからない、不気味な国」という印象につながっているように思います。当たり前のこと、言っても言わなくてもよいことをあえて言うことの必要性を、しばらく前、社会の潤滑油と例えたことがありますが、私が思う日本の問題は「効率」を重視する余り必要な「あそび」の部分を削り過ぎてしまっているのではないかということです。社会の柔軟性が乏しいというのでしょうか。ミクロメータのレベルでも狂いのない優れた高品質の製品を作る優れた科学技術を誇る日本でありながら、その本体である日本人が何を考えているのかわからないというのは、閉鎖された空間で魔術を行う魔女のイメージに重なります。かつてエコノミックアニマルと非難された日本ですが、これは一方的なアメリカの逆恨みでしょう。なぜなら日本はずっとアメリカが主導して引いてきたルールの中で戦い、その勤勉さと優秀さでゲームに勝ってきたからです。アメリカはゲームの内容自体を論理的に非難できないのでプレーヤそのものを非難しているわけです。ルール上は日本には何の非もないと思います。日本に非があるとすれば、わかってもらう努力をしなかった、あるいはわかってもらうことが重要であると思っていなかったことでしょう。話が跳びますが、これは、一代で一時は日本最大の総合商社となった神戸の鈴木商店の焼き討ち事件を思い出させます。米不足の時期、鈴木商店が米を輸出して米価をつり上げ巨利を得ているというデマを流されます。大阪朝日新聞をはじめとするマスメディアが国民を扇動し、デマがどんどん大きな話になっていった時期、鈴木商店の幹部は世論へ何らかの対策をすべきでだと考えます。しかし実質のCEOであった番頭、金子直吉は、「悪い事は何もしていない以上なんの申し開きをする必要はない」と世論を無視、ついに神戸鈴木商店本店は感情的になった民衆の焼き討ちにあい、この事件以後、鈴木商店の崩壊が始まっていくことになっています。力を持っているということは、それだけで反感を買うわけで、「正しい、間違っていない」という論理に人間の感情が基づいていると思う所に間違いがあるわけです。今の日本は力を持っています。研究においてもそうです。そうであるのに日本はその成功を快く思わない多くの外国に対して、自ら歩み寄って自分たちが善良な世界の市民であることをアピールすることが余りないと思います。自ら歩み寄らないのに二つの理由があると思います。一つはコミュニケーションする力の不足、二つ目には論文やパテントに繋がらないことを切り捨ててしまう効率主義。これらのことの弊害にもっと気づかねばならないと思います。研究計画書の話に戻りますが、英語で長文の研究計画書およびそのクリティークをやり取りすることには、これらの日本の効率主義の弊害の改善に有用ではないかと思うのです。研究計画書を部外者にもわかるように書く、それも英語で書くことは、「あたりまえであること」「わざわざ言う必要もないと思われるようなこと」を書くことを強いられます。誰にでも分かることから説きはじめて計画の核心へと進めることが必須です。その誰にでも分かる部分をわざわざ書くことが私は大切だと思うのです。部外者の人に自分の仕事をスライドなどで話てみればわかるのですが、他人は自分が思っているほど自分の話を理解していないことが多いです。そうした聴衆に分かってもらえるように話をすることは科学のコミュニケーションの上でとても大切だと思います。日本の研究室では、論文や研究計画書を書く人と実験をする人が全く分かれてしまっている所があります。場合によっては実験も分業体制でやっている工場のような研究室もあります。しかし本来研究は自分の疑問に対して実験的に答えていく活動であるはずで、疑問の提示とそれへの回答は非常に密接に相互作用しあっているわけで、それ故に新発見があるわけです。書くだけの人と実験するだけの人とクラスをわけてしまっては、実験するだけの人はなかなか論文を書いたりコミュニケーションしたりするトレーニングが十分できませんし、現場での実は重要なアイデアが埋もれてしまうことにもなります。これらは将来独立していく上で必須の能力であるにもかかわらずです。また逆に分業制の場合、論文を書いたり講演をしたりする人はたいていシニアの人で実験の実際がよくわかっていなかったりするわけです。若手で手を動かしているうちから、トレーニンググラントやリサーチグラントを書くことは、英語でのコミュニケーションをとり、論文を書いたりレビューしたりする技術を身につける上で大変有用だと思うのです。こうした作業は効率主義、工場的分業制にとっては、何のメリットもないと思います。しかし本当に重要な科学の発見は工場で生産されることはまれです。長期的に科学者を育ててオリジナリティーのある研究を進め日本をもっと理解してもらうためのコミュニケーション技術を育むことは大変重要だと誰でも考えていると重いますが、目先の成果を重用視する現在の日本の効率主義分業制がこれらのことを促進する上で障害となっているように思えます。長期的視野で日本の科学界の基礎体力を上げ、他の国にわかってもらえる開かれた国にするために、英語長文研究計画書とレビューシステムを入れることは悪くないアイデアだと思うのです。
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