百醜千拙草

何とかやっています

貧しさの罪

2023-02-08 | Weblog
前の続きのようなものですけど、定年退官後に私設の研究室を作りライフワークを追求されてきた先生は、その数年で研究に一億円ぐらいの私財を使ったという話をされました。生物系の研究というのはお金がかかりますから、そこに公的補助がなければ、最小限の研究室でも普通、個人では運営できません。先々月にお会いしたK大を辞めて小さなベンチャーを立ち上げた人も年間の運営コストは数千万はかかっていると思われます。機材の費用を加えずとも、最低限の規模の研究室のランニングコストは、研究室の家賃、光熱費、研究員一人の人件費、実験のための消耗品や試薬類で、月に最低、100-200万円ぐらいはかかるでしょう。加えて、中古で揃えるにしても機材の初期投資と維持に一千万以上は通常かかるでしょうから、普通の人が個人で生物学研究をするのは無理です。まして、最近の論文などで多く必要とされる高価な実験については、大きな施設の共同研究や商業サービスへのアウトソースなどが必要で、物理的にできないということもあるでしょう。加えて大きいのは環境で、大学などで専門家や必要なスキルを持った人材や論文アクセスなど、知的インプットや研究への補助が容易に得られないという状況では、なかなか十分な研究はできません。

もちろん歴史を遡れば、インスタント ラーメンが自宅の研究室で一人の人によって生み出されたように、多くの革命的な研究が個人の地道な活動によって始まっています。しかし、現在は、食品の研究は企業の研究室で高度技術を用いてなされているのと同様、生物学研究においても高度な実験技術や設備を必要とされており、個人のアイデアと努力に加え、環境や金というものが第一線の研究には必要です。

大学を離れて定年後にも実験的研究を続けようとすると、この先生のように財力とやる気と時間がなければ、実質、不可能です。しかし逆に言えば、金さえあれば可能です。アメリカのBroad Instituteは約二十年前、2年前に亡くなった事業家Eli Broadの資金によって設立されましたが、今やこの研究所は、二人の中国系CRISPR研究者の成功もあって、アメリカトップのバイオ技術研究所として君臨しています。優秀な人材と環境に加え、Broadの資金は不可欠でした。Broadの資金がなければ、これらの科学の成果もCRISPR遺伝子治療もなかったかもしれません。

金は価値あるものと交換することができます。研究や知的活動に必要な「価値あるもの」を(人材も含め)集め、組み合わせて、さらにより大きな価値をもつものを作り出すために、金というツールは現代社会では不可欠です。

金は「価値ある実体」との交換を通じて、価値を組み合わせてさらにおおきな価値を創造していくための触媒ですから、「金のない」こと、すなわち「貧乏」は、価値を作り出す能力が低いことに直結しています。この点において、金のあることは良いことであり、貧乏は悪いことです。

貧乏、それが今の日本です。日本は、自国通貨を持ち、無から金を生み出して政策を通じて金を社会に回す能力を持ちながら、まともな経済政策を行ってきませんでした。不況で金が回らず国民が困窮し、社会にばら撒きが必要なときに「ばらまき」という言葉を絶対悪かのように批判し、さらに景気を悪くし失業者とワーキングプアを増やしました。ようやく金融緩和をしたと思ったら、その金を一部の利権企業や政権自身に還流させることばかりを優先し、一般社会の金不足は放置、そのあげくにその分を一般国民から消費税増税によって埋め合わせるという悪行ぶり。結果、不況はますます深刻化し、最大の日本の資源と言える優秀な人材は見合った報酬を求めて海外流出が止まらないという状況を生んできます。金のないところに優秀な人は集まらず、価値を生み出す能力は更に制限され、ますます貧乏が加速するという状況です。それでもなお、財務省と自民党政府というカルト集団は緊縮財政をやめず、プライマリーバランス教を流布し、無理やり献金させて国民生活庭崩壊し、財政が健康なら国民が飢えて死んでも構わないとでも言わぬばかりに増税に邁進。これが今の日本です。

そんな政策の失敗によって貧乏になった日本が30年間ずっと衰退がとまらないのは、結局はこんな政権を放置してきた国民の責任でありますが、もう一つの原因は、「貧乏」に対する警戒心が日本人に足りないせいではないかとも想像します。

戦後八十年経ってそれなりに豊かな時代を過ごしてきた日本は、かつて、貧乏のために、老人を山に捨てに行ったり、生まれた子供を間引きをしたり、娘を売ったりした時代があったことは、物語や映画の中だけの話だと思っている人が大半ではないでしょうか。しかし、そんなお話の中の貧乏が現実になりつつあります。

加えて、「ワビ、サビ」とか「清貧の思想」とか「一杯のかけそば」とか、貧乏くさいことに意味を見出そうとする日本人の性向があると思います。これは、貧しさの中で心を軽くするための方便であったのではないかと私は解釈しています。一杯のかけそばを三人で分け合うよりも、一人ずつ、デザート付きの天ぷらそばを味わう方が普通はいいに決まっています。思いやりや分け合う心を学ぶのに実際に貧乏である必要はないです。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶとも言いますから。

貧乏は物語や歌の中だけで十分です。ユーミンが四畳半フォークと名付けたジャンルの音楽がかつてありました。そこでは、寒い冬に風呂がないので銭湯に行ったら待たされて湯冷めしてしまったり、電車が通ると裸電球が揺れたりするアパートに住んでいたり、という貧乏自慢が繰り広げられるわけですが、それらの歌の主人公たちも、無論、死ぬまでそういう環境で生活したいと思っているわけではなく、むしろ、近い将来に豊かな生活を送れる日がきて、貧乏は過去の思い出になっていくという希望が意図されているからこそ、歌として成り立っているのだろうと思います。

ともかく、こうした日本人の「貧しさ」への心情的な親和性が、今日、日本が貧しい理由の根本原因の一つとしてあるのではないだろうかとも思ったりしています。これによって、貧乏なのだから、みんなで我慢しよう、欲しがりません勝つまでは、というような言葉が真面目に語られるような状況につながったのかもしれません。

貧しさを警戒し、克服すべき対象と考え、それを無くすために、権利を主張し連帯して社会を変えようとするのではなく、逆に、貧しいなら「我慢」して、それが辛ければ「いっそ、きれい」に死んでしまう、こういう心理は他の民主主義国家に住む人々には理解できないでしょう。

世界が経済的につながっている中で、日本以外の国は豊かさを求めて成長を続けてきています。そんな中では、いやでも諸外国と同様の価値観を共有していく必要があり、日本だけ「清貧」がどうとか「ワビサビ」とか言っているわけにはいかないし、コロナで諸外国が財政赤字を積み重ねても不況を克服しようとしている時に、日本だけ国民経済を支えるどころか、「財源が」と言っては逆に増税するようなバカなことをやっていては未来がないです。

貧乏は「がん」のように徐々に体を蝕み、気づいた時には脳に転移していて心さえも破壊するような病であるというぐらいに考えておくべきではないかと思います。

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