和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

読書発想の若々しさ。

2022-12-18 | 前書・後書。
『大村はま国語教室』第8巻(筑摩書房・1984年)。

この解説(倉沢栄吉)を読んでみました。
アレレ~。苅谷夏子さんが、
中学生の頃の前田夏子として、そこに登場しております。

中学生の読書について、倉沢さんはこう指摘してます。

「そのうえ、中学生という時期は、個性の分化にともなって、
 
 ひどく瞑想的な読書をして思想を固めようとする傾向や、

 いわゆる文学少女的読書に埋没していく流れや、

 娯楽読書をのみ繰り返している生徒の群れなど、

 さまざまに分岐していく時期である。・・・・   」( p499 )


うん。この巻の本文を読んでいないくせして、
解説から、もうすこし引用をさせてください。

「平凡なことだが、この巻にも示されている大村はま国語教室は、
 『学習の充実と活性』の特色を見事に示している。

 とかく、読書嫌い・本離れになりがちな現代青少年を、
 どのようにして読書人としてまともに育てていったらよいかが、

 事細かに、明確にふちどられて示されている。・・・・  」( p500 )


「 発想の非凡さは申すまでもない。まえがきに・・・

 〇 ・・・・
 〇 ・・・・
 〇 問題にあうと、助けを本に求める人というような意味で、
   読書人という言葉を使ってみた。・・生きていくことに、
   生活のなかに、読書を位置づけている人である。

 ・・こういう発想が大村はま国語教室を若々しくさせている。 」(p501)


うん。解説だけ読みそれで満足して、
本文を読まずに語りたがる私ですが、
若い発想を促してくれてる国語教室。

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いつの世にも。

2022-12-02 | 前書・後書。
北康利著「本多清六 若者よ、人生に投資せよ」(実業之日本社)は
初版が2022年10月2日とあります。
検索してたら送料入れても2割引き強で買える古本があり注文。

パラリとひらいたのは『あとがき』。その最後でした。

「 読者の皆さんに本多清六の言葉を捧げて擱筆したい。

『 いつの世にも、根本的な重大問題は山積みしている。
  個人の力ではどうにもならぬ難関が立ちはだかっている。

  しかしながら、各人各個の心掛け次第で、
  それも順次に取り崩していけぬものでもない。

  ≪ 心掛ける ≫といった小さな力も、
  一人の心掛けが十人の心掛けになり、
  十人の心掛けが・・・・・

  いかにままならぬ世の中と申しても・・・
  これを少しでもままなるほうへもって
  いけぬことはあるまい。必ずもっていける。

  必ずよりよき変化は期待し得られる。
  私はさように信じてうたがわない 』(「私の生活流儀」)」


こうして、あとがきを、本多清六の言葉で終わらせておりました。
ちなみに、私は「あとがき」をひらいただけで400㌻の本文未読。

まえに、渡部昇一氏のエッセイで名前は存じておりました。
いまでは、明治神宮の森との関連で想起される方ですよね。

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老人国になることだし。

2022-11-27 | 前書・後書。
古本で200円。キケロ著「老年の豊かさについて」(法蔵館1999年)。
訳者は、八木誠一・八木綾子。

はい。題名にひかれて買った単行本です。
うん。読む読まないは別にして(笑)。
まず、「はしがき」のはじまりを引用。

「気がついたら老境に入っていた。
 気の早い友人はぼつぼつ旅立ち始め、
 からだの故障にいたっては、無いという人のほうが珍しい。

 かくいう私ども夫婦も、共に癌の経験者、
 いつまで二本足で歩いていられるか定かでない。

 よって人並みに働けるうちに、なにか老境にふさわしい
 仕事をしてみようかと思い立ったのが、
 キケロ『老年論』の翻訳である。

 わが国はやがて世界有数の老人国になることだし、
 老年もさまざまに論じられている状況だから、

 この分野での古典の訳も、本邦初訳というわけではないけれど、
 まんざら無駄ではあるまいと考えたわけで、
 幸い法蔵館が出版を受けてくれた。・・・   」


ちなみに、八木誠一氏は1932年生まれ。
八木綾子さんは1930年生まれ。
ちょうど、60歳代後半最後の頃の訳。

「あとがき」は、5行ほどで短い。
こちらも、最後の2行をカットして引用することに。

「ラテン文学は、ギリシャ文学とは違い、
 あまり青年向きではないように思われる。

 情熱と冒険というよりは、経験と常識の産物で、
 華麗ではないが滋味があり、
 年配の人の静かな共感を呼ぶのである。

 本書もそういう意味で現代に語りかけ、
 読者を人生についての省察に誘うだろう。・・・  」



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新刊「揺れる大地を賢く生きる」

2022-11-20 | 前書・後書。
夕刊フジのBOOK欄で紹介されてた
鎌田浩毅著「揺れる大地を賢く生きる」(角川新書)。

はい。この紹介文に惹かれまして、昨日アマゾン注文。
すると今日届く。ここは「はじめに」から引用します。

「たとえば、日本列島の活火山には噴火徴候があり、
 富士山も『噴火スタンバイ状態』にあるのです。

 そして南海トラフ巨大地震は2035年±5年のあいだに
 発生するだろう、との予測も出ています。」 ( p4 )


はい。『はじめに』だけ読む横着者の私ですが、
『はじめに』だけでも読み甲斐ある導入部です。
あと、この箇所を引用しておきます。

「東日本大震災に先駆けること7年前の2004年12月、
 インドネシアのスマトラ島沖で巨大地震が起きました。
 ・・・・
 報道されたテレビ映像で私の印象に強く残ったのは、
 和歌山県紀伊半島の海岸でサーフィンに興じている
 若者たちへのインタビューでした。
 あるテレビクルーが、サーファーに質問をしました。

 『津波が来たらどうしますか?』

 するとその若者はこう答えたのです。

 『サーフィンには自信があるから、津波に乗ってみたいです!』

 ・・・・・・・・
 次の『南海トラフ巨大地震』では東日本大震災の津波の高さを
 上回り、最大34mにもなると予想されています。さらに、
 たった50㎝の津波でも足をすくわれて溺死することがあるのです。

 そのため、津波が発生したと聞いたら、すぐに高台ににげなくてはいけません。

 サーファーの方もウケを狙っただけで、
 本気の発言ではなかったかもしれません。それでも、
 多くの人は津波の怖さを知らないのだな、と
 そのとき私は強く意識しました。

 それから7年足らずで起きた東日本大震災も同様でした。
 地震発生後に、津波が襲来するまで約30分、
 場所によっては1時間ほどありました。

 避難するための時間的余裕がなかったわけではありません。
 にもかかわらず、家や建物に残った人がいました。

 いったんは避難したのにもう大丈夫だと思い、
 引き返して亡くなった方もいます。
 津波の本当の恐ろしさが伝わっていなかったのでしょう。

 地球科学を専門とする研究者としては、
 本当に忸怩(じくじ)たる思いです。  」( p5~6 )

はい。これが「はじめに」の8ページの中にあります。

夕刊フジの本紹介も惹かれました。そうして、
本文の『はじめに』だけ読んでも惹かれます。

はい。いつも横着な、わたしの紹介はここまで。
そんな、横着者にも『はじめに』の個所だけで、
端的で行き届いた言葉に、感謝して反芻します。
とっさの際に鎌田浩毅氏のこの言葉をお守りに。


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細部にやどる。

2022-04-28 | 前書・後書。
講談社学術文庫に、尾形仂の本があり、
きちんと読まない癖して、「座の文学」と「歌仙の世界」
この2冊が気になって単行本を注文。古本で安かったし。

単行本もだと、読む楽しみに弾みがつきます。
なんといいましょうか。本文は読まない癖に。

さてっと、単行本「座の文学」(角川書店・昭和48年)
箱入りでした。題字は先輩の加藤楸邨氏による揮毫。
その題字の紙の裏。左下に小さく記されていたのが、
「本書を空爆の犠牲となった両親の霊にささぐ」。
これは、文庫本にはありませんでした。かわりに
文庫本の解説で触れられておりました。

つぎは、「歌仙の世界」(講談社・昭和61年)。
これは、「詩歌 日本の抒情」全8巻の7巻目として出されております。
函入りで、本には月報が挟まっておりました。大岡信・飯田龍太対談。
対談の、はじまりが忘れがたいので引用しておくことに。
対談の題は「連歌の面白さと室町の時代背景」でした。

大岡】 ・・・勅撰和歌集は21代集のところでおしまいになってしまった。
   鎌倉、室町時代は、勅撰集はそれを編纂する地下(じげ)の、
   プロの歌人達の争いの場にもなって、誰々が撰者になって自分が
   なれないのはけしからんとか、そういう争いが絶えずあるわけです。

   それで肝心のいい歌が少なくなってくる。・・・・実際にはもう
   いい歌もないから歌集を編むわけにもいかない、一人で全巻、
   自作でうめるわけにもいかないと。

   そこで連歌に新たな意味が出てくる。一人で出来ないなら
   二人ないし三人でやったらどうかというわけですね。
   そういう意味では連歌は、一種の緊急の和歌救出手段として
   価値を再発見された大変な代物だったと思いますね。
    ・・・・・・
    ・・・・・・
   たった一人の作者ではもうもたなくなっているんですね。
   それは『玉葉集』『風雅集』の、すぐれた、するどい
   感受性の歌が、同時にとてもさみしい歌であるという
   ことからもはっきりうかがえると思うので、
   これが室町の連歌の発生にとって必然的な時代の
   動きだったような気がします。


はい。月報の対談は、このようにしてはじまる8ページ。
うん。読ませます。
はい。これで楽しく本文が読みすすめられますように。

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連想くらべ。

2022-04-17 | 前書・後書。
わたしは、本を読んだ後より、読む前の方がいろいろ思い楽しめるタイプ。
ということで、尾形仂著「歌仙の世界」(講談社学術文庫)を語ることに。

本文を読む前に、あとがきと、文庫版あとがきをひらく。
そして解説、那珂太郎氏の「尾形仂と『歌仙の世界』」を読む。

はい。これで私は満腹。もう本文は、
あとまわしにして語り始めることに。
『あとがき』には重要なキーワード。
まずは

「・・明治以来久しく文学史の裏通りに追いやられ、
 高校の教科書からも姿を消してしまった現在、
 連句の存在やそのおもしろさを知っている日本人は、
 はたしてどれぐらいいるだろうか。・・・・

 本書は、そうした状況の中で、一人でも多くの日本人に
 連句のおもしろさについて知ってもらえたらと、まったくの
 初心の読者を対象に想定して執筆したものである。 」(p272)


『あとがき』は2㌻で、次のページに
重要なキーワードが書かれております。
はい。おもむろに引用することに。

「 連句はつまるところ、連想くらべの遊びである。
 
  なぜ芭蕉はその遊びに生涯を賭けたのか。
  『余興 四章』では、連句が日本人の感性や
  美意識や構想力の特性に裏うちされながら、

  いかに深く日本人の生活の中に根をおろしてきたか、
  そして芸術としてどんな特性や新しい可能性を秘め 
  ているかについて、考えてみた。

  ・・・・・初めはこの仕事に必ずしもそれほど
  乗り気ではなかった私を叱咤督励し、はからずも
  連句鑑賞の楽しさを十二分に満喫する幸せを与え  
  られた講談社出版研究所の中野景好さんに、
  今となっては心から感謝したい。       」(p273)

ちなみに、これは昭和61年5月に刊行されたもので、
1989年12月に、講談社学術文庫に入っております。
那珂太郎氏の解説も読ませます。解説のさわりを引用。

「生真面目な碩学である尾形氏は、自分から私生活や私的経歴
 について書くやうなこともあまりなさそうに思はれるので、
 私の知る範囲のことを・・略記しておきたい。」(p277)

はい。こういう本は、きっと読了後は
咀嚼するのに精一杯で、おいそれとは
語り始められず黙ってしまうのが落ち。
読む前の方がお気楽に語れるのでした。

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深く高く大きく面白い。

2022-01-14 | 前書・後書。
長谷川伸著「我が『足許提灯』の記」(時事通信社・昭和38年)。
この古本が函入りで300円でした。

うん。名前とエピソードしか知らない方なのですが、
いつかは読めればと思っていた人なので、この機会に購入。
はじまりをちょこっと引用しておきます。
小林栄子という老女が登場しております。

「・・中秋名月の日、滋賀県大津に宿をとり、
昼のうちに石山寺に詣で・・・宿にもどり、
夜になるのを待ち、石山寺で満月をみようと出かけてはみたが、
大阪の方からきた月見客の群集に揉まれながら、
石の多い路を足もとくらく上ることの覚束なさに、
ひとり瀬田川べりに佇んでいた。」

そこに、石山寺から下りてきた娘さんが


「どうぞなされてかと問うが如く顔を向けたので、
栄子は問わず語りに、上るのも大変なのでどうしようかと思って、
というとその娘さんが、ご一緒しましょう、
もう一度わたくし、おまいりしますと、
京都弁でいうより早くハヤ踏み出して栄子をふり返った。」

それから栄子は、石山寺の秋の月をながめ、下山します。

「・・振りかえりなどせずに行くその娘さんのうしろ姿を、
  真昼のような月の下で見送った。

 人混みにやがて紛れてしまったその娘さん・・・
 栄子はその娘さんを忘れかねて、宿にもどる心になれず、
 瀬田川べりをそぞろ歩きしているうちに、あの娘さんが
 ここの観音さまの化身でもあるように貴くおもわれ出した。

そのことを栄子が、昭和14年9月27日の夜、小石川の幸田家で、
幸田露伴に話すと、露伴は『その娘がおもしろいですね。
 そんなのを昔の人は観音様にしてしまうんですね』といった。
このことは『露伴清談』(小林栄子)にある。・・・・」

このエピソードをうけて長谷川伸は書いておりました。

「私には今いった娘観世音のことが深く高く大きく面白い。」
 (~p12)

ふ~。これで私は満腹。本文は、さらにエピソードが
続いてゆくのですが、私はこの本のはじまりと、
そして本の最後を読んで、それまでにして
その前に佇むようにしながら、本を閉じます。

そうそう。今日になってネットで古本を注文しました。
『露伴清談』(小林栄子)。
届いたら、引用の箇所を確認してみたいと思います。
そのとき、またブログにあげてみます。
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コンクリート造りの神社。

2022-01-07 | 前書・後書。
今泉宣子著「明治神宮」(新潮選書)が昨日届く。
はい。はじまりの1ページを引用しておきます。

「・・木造檜造の明治神宮社殿は、
昭和20年4月に渋谷方面を直撃した空襲により、灰燼に帰した。

それから7年後の27年4月、前年に調印されたサンフランシスコ
講和条約が発効し、進駐軍の占領解除に至る。

独立回復後はじめて迎えた秋の一日、
明治神宮復興を期した協議の場で焦点となっていたのは、
新社殿は木造かそれともコンクリート造であるべきかということだった。

社務所やその他の施設は不燃性材料でよいが、
せめて社殿は『創建当初』のように木造にしたいという主張への反論が
・・『では、神様は燃えてもよいのか』である。
このようなコンクリート派の訴えの背景には、
大震災と大空襲を経験した我々が、社殿を二度と
焼くことがあってはならないという悲痛な思いがある。

・・・再建をめぐる激しい議論の応酬は、
30年4月の会議で社殿は木造檜造という
合意に達するまで続くことになる。・・・・」(p3)

平川祐弘・牧野陽子著「神道とは何か」(錦正社)の
平川氏の文章の中に、焼き払われた明治神宮の
空襲のことが語られておりました。
うん。その箇所も引用しておくことに。

「・・日本の精神的バックボーンを粉砕するために
1945(昭和20)年4月13日から14日にかけての
第二次東京夜間大空襲の際に明治天皇が祀られている
明治神宮に対しておびただしい焼夷弾を意図的に投下し
それを焼き払いました。火炎天を沖(ちゅう)する様が
代々木西原の私の家からも見えました。

軍事施設でもない神社を爆撃目標にしたのは
文明的行為とはいえない。野蛮そのものです。

しかし西部劇でインディアンの祠(ほこら)に白人の
騎兵隊が火を放つ程度の感覚だったのではないでしょうか。
・・・・・・」(p26)

私たちの地域でも、
車で1時間ほどかけてもお参りする神社があります
( わたしは、あまり行かないのですが )。
いつからか、私が知るころにはコンクリート造りとなっておりました。
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シントウって?

2021-12-17 | 前書・後書。
佐伯彰一著「神道のこころ」(1988年・日本教文社)を
本棚からとりだしてくる。ちなみに、この本は、文庫もあります。

その「はしがき」には、最後に平成元年4月3日とあります。
その「はしがき」を引用することに。

「・・・・つい半年ほど前のことですが、ある女子大に招かれて、
『日本文化論』といったテーマの講演をしました。
しごく熱心な聴衆で、気持よく話すことが出来ました・・・

講演が終った後、わざわざ講師室へ幾人もの学生たちが
質問に現れました。・・・・

質問者の一人が、少しもじもじしながら、
真顔でこう言い出したのです。
『講演の中で、先生は何度かシントウといわれましたが、
シントウって一体何ですか?』

さすがに、こちらも一瞬息を呑む思いで、
相手の顔をまじまじと見つめざるを得なかった。
これは、もしかしたら・・からかいの質問だろうか?
・・・・

しかし、これはしごくまともな、生真面すぎるほど、
まっとうな質問だったと判明しました。この女子大生は、

十数年間の教育課程の中で、どうやら神道について
何一つ印象に残る話は聞かせられなかったらしいし、
自分で読んだことも一度もなかった・・・・

もしかしたら神道はほとんどタブー扱いされてきたのではないだろうか。
・・大方の戦後教育の実態だったのかもしれません。・・・

そこで、本書のモチーフのまず第一は・・・
神道の基本的な性格と在り方を、ぼくなりに明らめたい、
その際に、出来る限り、広やかな、いわば比較文化的な
視点で眺め、語ろうと心掛けました。・・・・

第二は、神道と日本文学史とのかかわりという点です。
これもじつの所、気の遠くなるほどの大テーマに違いありません・・

いわば、日本文学の底なる原型的特徴を探り、
明らめようという試みであり、この方向の仕事は、
今後もいろんな形で推し進めたいという気がしています。
  ・・・・・・・・・

第三に、いやじつはこれこそ本書の中心テーマかも知れないのは、
ぼく自身の神道発見、もしくは神道回帰という心情でしょう。・・
しかし、これはもともと本書一冊で片づく問題ではないでしょう。」



この『神道って何?』と聞きに来た女子大生たちは、
いまでは、50歳代なのでしょうか?
さて、この佐伯彰一氏の本は『お正月の思い出』という
4ページの文で終っておりました。そのはじまり

「六十数年のわが生涯、ふり返ってみると、
いろんな土地で、正月を迎えてきた。・・・・・・・・

子供のころは、気づかなかったけれど、山深いわが村落(芦峅寺)
の正月の迎え方には、かなり独特のものがあった。

立山信仰ということが、生活の中にしみ込んでいたせいに違いないが、
宿坊の子供たちは、大晦日の晩に、開山堂にお籠りをした。
明朝のお参りの準備など手伝うのだが、深夜の森閑としずまりかえった
お社の中というのが少々こわく、物珍しく、心おどる思いだったし、
冷えこむ寒気にそなえて、大火鉢に山もりの炭火がカンカンと燃え
さかっていた様子など、今でもありありと目に浮かぶ。

それに、一仕事片づけた後に出されたお夜食というのが、おいしかった。
炊きたてのご飯に、缶づめのかつおをまぜ合わせたお握りだったが、
ふうふういいながら、大きいのをいくつもたいらげずにいられなかった。

一たん帰宅して、早朝に起き出すと、まず井戸の若水をくんで、
神棚にそなえる。そしてすぐ神社にかけつけて、ご奉仕をする。
お参りにくる人たちにお神酒をついだり、年餅を渡したりする。
・・・・・・・・・・・・・・」

あれれっ、いつのまにか、田舎のお正月がそこまで来ている

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前書き・目次・後書き。

2021-06-10 | 前書・後書。
鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」に、
「読者が購入するとき」という箇所がありました。

「読者が購入するとき、本のどこを見るのであろうか。
書店で何度も観察したことがある。

目的買いの場合はそれほど中身を見ない。
しかし、衝動買いの場合、読者は
まえがき、あとがき、目次、著者略歴などを読む。

そしてパラパラとめくり、アトランダムに読む。
そこで気にいれば購入する。多くはそこで、
棚や平積み台に戻すのである。

なかなか買ってくれない。目次は購入要因に
かなりの比重を占める。・・・・」(p136)

はい。最近は本屋へ出かける機会がなくなりました。
それはそうと、思い浮かんだのは、
桑原武夫著「人間素描」(筑摩叢書・1976年)。
はじまりに「湖南先生」が登場します。

「先生は大ていの書物は、
まず序文を丹念に読み、それから目次を十分にらんだ上、
本文は指さきで読み、結論を熟読すれば、
それで値打はわかるはずだと漏らされたという・・・」(p10)

はい。読者の『衝動買い』と、内藤湖南先生の本読みと、
『まえがき・目次・あとがき』とが、共通しております。

うん。これはいい指摘で、ありがたい。
けれども、先生は、「丹念・十分にらみ・熟読」の三拍子。
『序文を丹念に読み』『目次を十分にらみ』『結論を熟読』
とあるのでした。うん。身銭を切るときには、
一般読者も、この三拍子につい力がはいります。

それにしても、先生の言うところの
『本文は指さきで読み』というのは、どうなのでしょう。
まるで、辞書をひくのに、指確認でもしている恰好でしょうか。
はい。簡単に答えがでて、理解できるわけでもなさそうですが、
今度、ダメでもともと、恰好だけでも真似してみたくなります。

はい。寝かせ過ぎていた本たちと向合って。
呪文ならば、『眠りの姫よ 起きなさい』。
何となく、わからないながら『指さきで』。
合言葉は、『まえがき、目次、あとがき』。
ということで。


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震災の一年間の歌集句集。

2021-03-15 | 前書・後書。
東日本大震災が、2011年3月11日でした。
本棚から取り出した長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社)は、
2011年4月25日初版でした。その「はじめに」には

「・・そのとき、私は有楽町駅の山手線ホームにいた。
高架のプラットホームは暴れ馬の背中のように震動し、
周囲のビルは暴風に揉まれる椰子の木のように軋んだ。

その夜からである。荒々しいリズムで短歌が次々に
湧きあがってきたのは、私は俳人だが、なぜ俳句でなく
短歌だったのか・・。『やむにやまれぬ思い』というしかない。」

つぎにでる、長谷川櫂著「震災句集」(中央公論新社)の初版は
2012年1月25日でした。この句集の最後に「一年後」という4頁
ほどの文がありました。そこからも引用しておきます。

「・・あの日から十日あまりの間は短歌が次々にできた。
・・・俳句は極端に短いために言葉で十分に描写したり
感情を表現したりすることができない。

短歌に比べれば、俳句は『かたこと』なのである。
そこで言葉の代わりに『間』に語らせようとする。
『間』とは無言のことであり沈黙のことだが・・・・
そうした『間』がいきいきと働くには空間的、時間的な
距離(余裕)がなければならないだろう。

俳句にあって短歌にないもうひとつの特色は
俳句には季語があるということである。季語とは
雪月花をはじめとして文字どおり季節を表す言葉
のことだが、季節は太陽の運行によって生まれる。

ということは季語には俳句を太陽の運行に結びつけ、
宇宙のめぐりのなかに位置づける働きがあるわけだ。

俳句のこうした特性のために、俳句で大震災をよむ
ということは大震災を悠然たる時間の流れのなかで
眺めることにほかならない。それはときに非情なも
のとなるだろう。

大震災ののち十日あまりをすぎると、短歌は鳴りをひそめ、
代わって俳句が生まれはじめた。しかし、『震災句集』を
つくるのに一年近くかかった・・・・
また句集の初めと終わりに二つの新年の句を置いたのも
これとかかわりがある。どんなに悲惨な状況にあっても
人間は食事もすれば恋もする。それと同じように
古い年は去り、新しい年が来る。

以上が短歌と俳句の違いをめぐって、
この一年間に私が考えたことのあらましである。

しかし、中国の詩人は杜甫も李白も
内容と気分に応じて五言と七言、さらに四句の絶句と
八句の律詩を自由自在に使い分けた。これをみれば、
短歌と俳句の違いとはいっても、
それほどのものでもないと思えるのである。・・・」


はい。せっかく本棚から長谷川櫂(はせがわ・かい)氏の
「震災歌集」「震災句集」の二冊をとりだしてきたので、
しばらくは、身近に置いておくことにします。

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そりゃ、そうや。しゃあないで。

2021-02-05 | 前書・後書。
気になって注文した
井上章一著「京都ぎらい」(朝日新書・2015年)が届く。
表紙カバーの上に同じ大きさのカバーがかけてあって、
「2016年新書大賞第1位」とあるのでした。
定価41円+送料257円=298円。

うん。はじめの30ページほど読んで満腹感。
この本のはじまりのキッカケとなった2人が登場する場面。

「そのころ私が在籍していた京都大学建築学科の上田篤ゼミは、
町屋の研究にいどんでいた。杉本家住宅の建築も、しらべるリストに、
はいっている。・・・私は同家をたずねている。
初対面の九代目当主、故杉本秀太郎氏とも、会うことができた。」
(p17)

杉本氏との言葉のやりとりがキッカケとなって、
この本がはじまっているのでした。よほどカチンときて、
井上章一氏は、それ以後その会話がひっかかっていたようです。

つぎに梅棹忠夫氏の登場となります。

「あれは、1990年代のなかごろであったと思う。
私は、国立民族学博物館の顧問になっていた梅棹氏の執務室を、
おとずれた。学問の歴史に興味のある私は、碩学たちにしばしば
昔話をたずねることがある。梅棹氏のところへおもむいたのも、
そんな取材のためである。
・・・・そして、梅棹氏にも問うてみた。

『先生も、嵯峨あたりのことは、田舎やと見下したはりましたか』

あまりためらいもせず、西陣で生まれそだった梅棹氏は、
こうこたえてくれた。

『そら、そうや。あのへんの言葉づかいがおかしかった。
僕らが中学生ぐらいの時には、まねをしてよう笑いおうたもんや。
じかにからこうたりもしたな。・・・そら、しゃあないで』

嵯峨の住民は、言葉づかいがおかしかったという。
どうやら、私の故郷には、独特のなまりがあったようである。
今は京都市の右京区に編入されている嵯峨だが、
かつては京都府葛野(かどの)郡にぞくしていた。
そのしゃべり方も、京都弁とはいくらかちがっていたらしい。
梅棹氏には、それがたいそうこっけいに聞こえたという。

ざんねんながら、1960年代以後の嵯峨にそだった私は、
そのなまりがつかえない。あのあたりは、もうすっかり
京都弁のとびかう地域になっていた。私の口調も、
京都風のそれにそめあげられている。」(p24~25)

うん。わたしはここまでで満足してしまう(笑)。
おそらく、杉本秀太郎・梅棹忠夫の両氏は、
このはじまりに登場しただけで姿を消すのだろうなあ。
それから、このテーマを引きずってきた井上章一氏が
どのようにして、この二人の言葉を咀嚼して辿ってゆくのか。

うん。とりあえず、わたしの298円読書はここまで。


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声をかけられなければ。

2020-05-24 | 前書・後書。
「幸田露伴の世界」(思文閣出版・2009年)は
井波律子と井上章一の共編となっておりました。

「まえがき」が、井波律子。
「あとがき」は、井上章一。

この共同研究の「あとがき」の最後に、こうありました。

「研究会では、幹事役をおおせつかった。
しかし、私の司会は、全体を拡散する方向にしか、
はたらなかったと思う。・・・・・露伴論をかわしあい、
たがいにすこしずつかしこくなれた二年半が、今はなつかしい。
この機会をあたえてくれた井波律子氏に、
感謝の気持ちをそえて、筆をおく。」

はい。「あとがき」のはじまりを引用(笑)。

「研究会のはじまる前は、露伴の書いたものなど、
ほとんど読んだことがなかった。つきあえば、あじわいぶかい
人なんだろうなという予感が、なかったわけではない。いつかは、
目をとおしてみたいという心がまえも、どこかでいだいていた。

だが、露伴の書いたものには、漢籍や古典のうんちくが、
ちりばめられている。和漢の教養にくらい私などが、
たやすく読めはしないだろう。そんな先入観もあり、
ながらく敬遠しつづけてきた。
井波さんから声をかけられなければ、
そのままほったらかしつづけていたと思う。

とはいえ、私が露伴の研究会でとりあげたのは、
『頼朝』という史伝である。史学史的な興味でえらんだのだが、
・・・この本は、少年むきの読みものとして、書かれていた。
和漢籍の博引傍証は、ほかの本とくらべれば、
ひかえ目になっている。これならば、無学な私でも
とっつきやすかろうという判断も、私をこの本にむかわせた。

読んで思ったが、露伴のこころざしは意外に新しい。・・・
私だけが、そう感じたわけではない。・・・・

明治以後の、東京における知識や考え方を、うかがう。
いわゆる時代精神のありようを、つかみとる。そのためにも、
うってつけの人であろうと、今は考えだしている。・・・・」


はい。この「幸田露伴の世界」に、井上章一さんは、
「『平家』と京都に背をむけて」という題で書いており、
その文は、わたしを惹きつけました(笑)。
ちょっと長くなりそうなので、今回はさわり、
次回に、その内容を書いてみます。
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田舎の功徳。

2020-05-02 | 前書・後書。
発売中の月刊Hanada6月号。
その最後に、平川祐弘の「一比較研究者の自伝」があり、
連載23回目をむかえておりました。

この回だけを、読んで私は満腹(笑)。
いろいろ思います。たとえば、これがドラマだとすると、
そこに、一言セリフがある通行人Aが登場しておりました。
そのAが、ここでは佐伯彰一氏。
23回目では、一回しか登場しませんので、その箇所を引用(笑)。

「助手の分際(ぶんざい)でこうしたことを平気で書く私は
『大助手』と呼ばれてしまった。しかし一旦学内で
『大助手』と呼ばれるともう出世できない、とは
佐伯彰一氏のうがった観察で、氏は英語の非常勤講師として
毎週駒場の外国語談話室に寄ると、フランス語の若い教師連が
いつも平川の悪口を言っている。大学院担当という肩書も
癇にさわるらしい。学問はあるようだがああ悪口を言われては
平川は東大に残れまいと思った、というのである。」(p356)


はい。佐伯彰一氏の登場場面は、これだけでした(笑)。
ちなみに、

佐伯彰一氏は、1922年生まれ。
平川祐弘氏は、1931年生まれ。

気になったので、佐伯彰一氏の本を一冊注文。
古本で200円+送料340円=540円でした。
ネット古本屋(愛知県名古屋市)から購入。書名は
佐伯彰一著「神道のこころ」(教文選書・1989年)

はい。こんな箇所がありました。
「正直に言って、余りにまともにキリスト教的な作品は、
ぼくにはどうにも親しめず、にが手である。
ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』など、
どうにか頑張って通読してみても、その堂々たる
結構、偉容には、大いに気押されながらも、
わが心身に沁みいるような感動は、
とても得られなかった、と打ち明けざるを得ない。」
(p70~71)

ちなみに、平川祐弘氏はダンテの『神曲』を訳しております。
もどって、平川氏の連載に、ちょい役で登場した佐伯彰一氏。

略歴に「大正11年生れ。富山県の立山山麓、古くからの信仰を
守りつづけてきた神職の家系の出。・・・」とあります。
うん。気になる。

届いた古本の最後の文は「お正月の思い出」でした。
はじまりは

「60数年のわが生涯、ふり返ってみると、いろんな土地で、
正月を迎えてきた。・・・やはり一番深く心に残っているのは、
わがふるさと立山村(町)の正月である。

子供のころは、気づかなかったけれど、山深いわが村落(芦峅寺)
の正月の迎え方には、かなり独特なものがあった。
立山信仰ということが、生活の中にしみ込んでいたせいに違いないが、
宿坊の子供たちは、大晦日の晩に、開山堂にお籠りをした。
明朝のお参りの準備など手伝うのだ・・・・・
大火鉢に山もりの炭火がカンカンと燃えさかっていた様子など、
今でもありありと目に浮かぶ。それに、一仕事片づいた後に
出されたお夜食というのが、おいしかった。炊きたてのご飯に、
缶づめのかつおをまぜ合わせたお握りだったが、ふうふう
いいながら、大きいのをいくつもたいらげずにいられなかった。

一たん帰宅して、早朝に起き出すと、
まず井戸の若水をくんで、神棚にそなえる。
そしてすぐ神社にかけつけて、ご奉仕をする。

お参りにくる人たちにお神酒をついだり、年餅を渡したりする。
その一家の人の数だけ渡すというきまりで、わが村落の人々は、
元旦のお雑煮に必ずこの年餅をいれて、まずこれから頂く。
つまり、神様から一つ年を頂くというしきたりであった。


・・・・ぼく自身、
富士市の高校に入り、また東京の大学に進むころには、
ふるさとのしきたりなど、何だか古ぼけた、田舎くさいものに
感じられて、とかく敬遠気味だった。いやむしろはっきりと、
そうしたルーツは切り捨てようと努めたようだ。
夏祭りのおみこしもかつがなかったし、
お正月も大方、東京ですごすようになった。

大学進学に際して、英文科といった、山家育ちの少年には、
まるで無縁、不向きという外ない選択をしたというのも、
高校時代の恩師老田三郎先生の影響があったとはいえ、
何より古くさいわがルーツを断ち切るという
気持ちが底で働いたせいに違いない。

一体、日本人には、何かというと、都ぶりを重んじて、
地方田舎を軽んじ、小馬鹿にする傾きが強かった。

  ・・・・・・・・・・・」

はい。あとは4ページの文の最後を引用。

「そこで、田舎育ちの功徳を言わずにいられない。
一見華やかで、根のない近代化、現代化が、一体どこまで
本当にわれわれを支え、力づけてくれるのか。
長い尺度で、日本文化をふり返り、見直すとき、
われわれを根底から培い、育ててくれる田舎という
土壌の強みと恩恵を思わずにいられない。」


せっかくなので、この本の『はしがき』の
はじまりの言葉を、ここにもってきて置いてみます。

「神道について語ることは、難しい。
じつに難しいけれど、何とか語りたい。語られずにいられない。

いや、わが国の文化、文学、さらには歴史の動きさえ、
神道をぬきにしてはとらえ難いのではないか。
神道を棚上げにした日本文化論、文学論の何という空しさ、味気なさ・・・・」


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「索引」の夜明け。

2020-04-22 | 前書・後書。
中国のネット上では、自国に不利な情報を流せば、
すぐにでも、削除されるという情報があります。

はい。それが、検閲社会ならば、
じゃ、日本は、検索社会である。
として、いいのじゃないか。索引ができる社会へと
向かっているのじゃないか。

こう思ったのは
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和社会」(文藝春秋・1991年)
のまえがきを、読んだからでした。

この本の題名は、編集者が考えたものですから、
あんまり、題名は気にしなくてもよいのでした(笑)。

本文は、昭和48年~平成3年まで、おもに雑誌への掲載文が
まとめられておりました。そのなかには
「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」という文もあります。
この本の「あとがき」で、徳岡氏は

「視聴者(新聞の場合は読者)が判断を下せばよい。
 それが出来ないほど大衆はバカではない。」

と記しておりました。この本の「まえがき」は4頁ほどの文です。
題して「『索引』のない社会」としてあります。
まえがきも、雑誌に掲載された文で
昭和55年7月号『諸君!』に「『索引』なき社会」として
載った文なのでした。

うん。この「まえがき」から引用したいのですが、
どこから引用すればよいのか?
いちばん最後の三行を引用してみます。

「幸か不幸か、この国は『索引なき社会』だ。
時に応じ機に乗じ、だれでも無責任な説をなし、
世に好まれるものを書きとばすことが可能だ。
流行すたれば、世間は都合よく忘れてくれる。
・・・・(1980年5月記)」

はい。40年前のこの国は、こうだったのです。
これが印象鮮やかなのは、40年後の現在の
ネット社会と、つい比べたくなるからです。

はい。そんなことを思いながら、
では、40年前の「この国」を引用してゆきます。

「・・索引のない本は、内容を覚えていないかぎり、
簡単には役に立たないからである。
ジョン・トーランドのThe Rising Sunは
2・26事件から終戦までの日本を書いた面白い本だが、
私も翻訳に参加した訳書には索引がなく、
原著には23ページも索引がついているので、そのほうを重宝している。
ほとんどの翻訳物が同断で、邦訳にだけ索引がない。

一般に横文字の本は、詩か小説か随筆でないかぎり索引がついている。
ついていなければ、まともな本として信用されないからである。
必ずしも研究の用でなく、読んだだけで楽しい本でも、たとえば
ドーバー・ウィルソンのWhat Happens ㏌ Hamlet には
綿密な索引と引用索引がついている。」

はい。まだまだ、引用を続けさせてください(笑)。

「現代日本文学全集(筑摩版)は、正字・旧仮名遣いの貴重な全集だが、
その別巻1『現代日本文学史』は中村光夫、臼井吉見、平野謙各氏が
それぞれ明治、大正、昭和を分担執筆した好著でありながら、
人名、事項いっさい索引がない。不便このうえない。
野口武彦『谷崎潤一郎論』、中村光夫『永井荷風論』、同『漱石と白鳥』
本多秋五『「白樺」派の文学』・・・・・どれ一つ索引がない。
これらの本すべて、非常に役に立ちにくい、
一度読んだあと、必要なときに必要なページが
開けるほど読者の記憶力はよくないからだ。」

このあとが、新聞への言及となるのでした。

「新聞記者の書いたものになると、この傾向はさらに顕著になる。
大新聞の特派員が在任中の見聞を書き溜めて一冊にした本など、
索引はおろか参考文献一覧もインタビュー対象者一覧も欠く。
私が書いたものを含め、すべてから実に薄っぺらな印象を受ける。

それだけならまだいい。20年前のソ連、10年前の中国を書いた
特派員報告書に至っては噴飯ものが珍しくない。本だけならともかく、
表芸の新聞記事がそうで、林彪の失脚は自由主義諸国の故意のデマだとか、
中国航空のスチュワーデスはやさしくて、その態度を見ただけで安全がわかる
(私なら機長の態度のほうを見るところだ)等々と書いたのに、
いまだに中国通で通っている人がいる。

現に北京からしきりに『近代化』を報じている特派員の中にも、
毛沢東が死んだとき・・・・・・・・・・・と書いた人がいる。
それらは読者の健忘症をたのみつつ時に応じて
カメレオンのように変身していこうという、新聞記者のツラ汚しである。

学者の中にもカメレオンがいる・・・・・・・・・
そんな世論指導者に操られる日本民衆が気の毒だ。

それらはすべて索引が完備していて、
それが累積していく制度さえあれば、こわくて書けない文章である。
索引がないから、日本の学者やジャーナリストは、
世の流れに浮かぶうたかたのような説を立て、
そのくせ枕を高くして眠ることができる。

索引のない物ばかり読んでいるから、
日本人の思考もいつのまにか非索引的になっていく。
・・・・・・・・
・・・・・・・・
こうして見てくると、日本人の論理活動の
大部分は、書きとばし、読みとばしであるとわかる。」

うん。まだあるのですが、
4頁の全文を引用してしまいそうなので、ここまで。

こうして引用していると、
この文の40年後。ネット社会に突入した現代は
「日本人の論理活動」にドエライ刺激を与えている
ということになるのだと結論づけてもよいのでしょうか。





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