和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「日本文学のなかへ」

2006-12-11 | 硫黄島
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋・昭和54年)が、私に魅力です。
その魅力は、たとえば養老孟司著「バカの壁」にたとえられるのかもしれないなあ。
あの養老さんの新書は、編集者に語り、編集者の手でまとめられていたのでした。
そこが似ていると、つい思ってしまうのです。
このキーンさんの本も、編集者が詳細な(百数十項目)質問表を用意して、それを友人の徳岡孝夫氏と、週一度の割で会い、ポーランド産のウオツカを二人で傾けながら語ったというもので。それを徳岡氏がまとめたものでした。それが現代文のお手本のようです。簡潔に要領を得て、なめらかな日本語の文になっているのでした。
帯には「研究自叙伝シリーズ」とあります。
自叙伝といえば、福沢諭吉著「福翁自伝」がありますね
(文藝春秋2007年1月号の特集「文春・夢の図書館」で、齋藤孝氏が「偉大なる生涯・伝記10冊」をあげておりました。その一番目には福翁自伝がありました)。
野口武彦はこの本を指摘して
「『福翁自伝』は、諭吉が自分で書いた文章ではない。明治31年(1898)に幼児から老後のことまでを語った談話を筆記させた著述である。行間に話芸が光っている。平板な回顧談ではなく、人生の切所々々で下した決断が現場感覚的に再現されている。諭吉はただの不満分子ではなかった。現状が変わらないのなら、自分の方を変えようと行動を起す果断さがあった。・・・・」(「近代日本の百冊を選ぶ」講談社より)。

それじゃあ。というわけで、余談になりますが、私はここで戦いの時をとりあげてみます。
福翁自伝の「上野の戦争」から
「明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業をやめない。上野ではどんどん鉄砲を打っている、けれども上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気づかいはないというので、ちょうどあのとき私は英書で経済(エコノミー)の講釈をしていました。大分騒々しい様子だが煙でも見えるかというので、生徒らはおもしろがってはしとに登って屋根の上から見物する。なんでも昼から暮過ぎまでの戦争でしたが、こっちに関係なければこわいこともない。」
「顧みて世間を見れば、徳川の学校はもちろんつぶれてしまい、その教師さえも行くえがわからぬくらい、まして維新政府は学校どころの場合でない、日本国じゅういやしくも書を読んでいるところはただ慶応義塾ばかりというありさま・・・」

「日本文学のなかへ」での戦争はというと、
「海軍語学校は、そのころ、ちょっと奇妙な世界の中に埋没していた。私たちの周囲の社会は戦争一色だが、語学校だけは不思議なほど戦争に無縁で、ひたすら日本語を覚えることに没頭できた。日本語を私たちが覚えることと戦争遂行の間にはどんな関係があるかは、全然と言っていいほど念頭に上らなかった。全米に軍服が氾濫していた時代だが、私たちだけは軍事訓練も受けず、ひたすら日本語の世界に沈潜していたのである。」(p31)
「レイテ島を出た輸送船団に便乗して沖縄に着いた日の朝、私ははじめて神風特攻機を見た。急降下してくる機影は、茫然と甲板上に立ちすくむ私の眼前でみるみる大きくなり、『やられるな』と思ったつぎの瞬間、僚船のマストを引っかけて海に落ちた。・・・アッツ島に私が着いてまもなく、日本守備隊は玉砕した。・・・」

せっかくですから、ここでの最後にサイデンステッカー自伝「流れゆく日々」(時事通信社・2004年)で、語学将校として第2次大戦を体験した様子も見てみたくなります。

「1945年2月、われわれはトラックと列車でヒロの港まで行き、硫黄島に向けて出航した。・・・・2月も終わりのある日の朝、われわれの眼前に硫黄島が浮んでいた。到着の前夜は、戦争中を通じて最悪の夜だったと思う。・・あの夜ばかりは、まさしく一睡もしなかったと確信して疑わなかった。私はおびえ切っていた。・・・」
「第五海兵隊は、島の南端の砂浜に上陸することになっていた。・・・・
そんな所に馬鹿みたいに突っ立ていないで、早く壕を掘れ――上官は私にそう命じた。確かに私は、まさしく馬鹿のように突っ立っていたに違いない。気を取り直して、一人用の塹壕を掘り始めたが、ほとんど掘り終わる頃になって、初めて気がついた。いかにも気味の悪い物体が、ほんの数フィート先に、なぜ今まで目に止まらなかったのか不思議なくらい、これ見よがしに突き出しているではないか。・・・塵芥の山の中から、剥き出しの日本兵の腕が突き出ていたのだ。・・・大いに不思議に思えてきたのは、むしろ私が、あれほどたちまちのうちに、この腕に注意を払わなくなってしまったという事実だった。そのまわりを歩いても、目をそらすこともなくなってしまっていたのだ。・・・」(p58)

「戦闘も最後に近くなると、・・・斬り込み隊の突撃が繰り返された。・・・夜中に突然、敵陣に乱入して来る。・・一度などは、われわれのいる司令部の北側のほんの数十ヤードの所を、突撃隊が突進して行ったことがあった。もし彼らの進路がわずかに左手にそれていれば、われわれ全員が突撃に遭遇していたに違いない。翌朝になって初めてこのことを知り、動転したのだったが、しかし、それ以後この島を離れるまで、毎晩恐れは感じたとしても、上陸前夜の、あの圧倒的な恐怖に比べれば、所詮、ものの数ではなかった。」(p60)
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万葉集への目印。

2006-12-11 | 地震
万葉集は読みたいのですが、なかなか、とっかかりがつかめません。
その切っ掛けになればと思いながら、並べてみます。

司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文春文庫)を、最近同じgooブログの「言葉の泉」さんが引用しておりました。その引用されていた「学生時代の私の読書」の最後には、こんな言葉があったのでした。
「・・ただ軍服時代二年間のあいだに、岩波文庫の『万葉集』をくりかえし読みました。『いはばしる たるみのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも』。この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、死に直面したその時期に、心をつねに拭きとる役目をしてくれました。」(p40)

産経新聞2006年12月8日四コマ漫画の下に「葬送」として野崎貴宮さんの署名記事。
白川静さんを取り上げております。
これは、引用しておきたくなりました。

「『わが故郷(ふるさと)は日の光 蝉の小河(おがわ)にうはぬるみ』で始まる薄田泣菫の詩『望郷の歌』の朗読が会場に響いた。大学紛争の時代。白川研究所には夜遅くまで電気がともり、研究をやめない姿に、学生たちも圧倒された。そうした中、白川氏がよく口ずさんでいたのが、この詩だった。マンツーマンで講義を受けた経験がある佛教大の杉本憲司教授(中国考古学)は『先生は万葉集を暗記していた。苦学していたころに暗記したようです。漢字研究と同じくらいすごいのが万葉集と詩経の二大歌謡の比較研究。先生は古代歌謡論の世界にも大きな業績を残した』と振り返った。・・・・」

「口ずさむ」とか「暗記していた」とかは、その謦咳に接した方の言葉として貴重でもあり、とても参考になり、ありがたく思うのでした。

もうひとつ。
文藝春秋2007年1月号の特集「文春・夢の図書館」。
山折哲雄氏は「日本人のルーツを考える10冊」で、最初に万葉集をあげております。
それについている言葉は
「日本人の源流を考える上では、やはり第一に『万葉集』だろう。とりわけそこに盛られている『挽歌』の世界は、おそらく相聞歌のそれよりもはるかに重要ではないかと思う。挽歌とは死者を悼む歌。当時の日本人は、死者の魂の行方にただならぬ関心を抱いていた。・・・・」(p302)

ついでになりますが、
山折さんの10冊リストの、⑤⑥番目が気になりました。
そこで和辻哲郎著「風土」と寺田寅彦著「日本人の自然観」をならべて、こう書いております。
「和辻の『風土』は世に知られた名著で、いろいろな読み方がされてきたが、その要点をいえばわれわれの日本列島を『台風列島』ととらえたところに重要な特徴がある。日本人の精神的ルーツを『台風』という風土的契機を軸に考察したものだった。これにたいして寺田の『日本人の自然観』は同じこの日本列島を『地震列島』として対象化し、日本人の宗教感覚や美意識に迫ろうとしたものだ。和辻のいう『台風』か、それとも寺田のいう『地震』かというテーマは、見方によっては巨大な展望のひろがりを予想させるものだが、面白いことに和辻はもっぱら台風にのみ着目して地震を無視している。そしてそれにあたかも反旗をひるがえすような形で、寺田は地震にのみ論点をしぼって台風を視野の外においている。和辻は台風を契機とする風土論から『慈悲の道徳』という倫理的課題を抽出し、それにたいして寺田はその地震論にもとづいて『天然の無常』という宗教的課題をすくいあげているのである。
21世紀は大災害の世紀になるかもしれないと危惧される今日、右の和辻と寺田の対照的な問題提起は、日本人の源流を探ることと同様、日本の将来を占う上で見逃すことのできない仕事だったのではないだろうか。」

ここから、思い浮かぶのは山折哲雄著「悲しみの精神史」(PHP)でした。
そこの「寂寥に生きた万葉人」(p25~)の中に、こんな箇所があります。

「もう一人、山部赤人と同じ心構えで富士を歌にした高橋虫麿(むしまろ)がいる。赤人の蔭にかくれているような歌人だが、こちらのほうがむしろ見過ごせない。」として虫麿の一文を引用しております。
「・・・富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず・・・」
ここを山折さんは、宗左近さんの解釈で説明しております。
「燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ」が噴火の状況そのものであることがわかる。その「燃ゆる火」が富士の山頂に燃えさかる火柱であることがみえてくるだろう。
ここで宗さんの言葉から引用しております。「富士は噴火活動を続けた。とくにいまから約三千年前(縄文晩期の始まり)から紀元八百年ごろ(平安前期)までの、およそ千八百年間がもっとも盛んだった。」
赤人と虫麿の生れたのは、ほぼ紀元650年以後と推定。
「かつての富士大噴火の体験と恐怖が、それ以来の縄文人の意識(無意識)のなかに流れつづけ、それがさらに紀元前1000年から紀元後650年にかけての活発な大噴火の体験と恐怖によって点火され増殖されたのではないか。」と宗左近著「日本美 縄文の系譜」から引用しておりました。

ここで、山部赤人の歌をあらためて読み直してみると。

「  

天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 富士の高嶺は  

     反歌

        田子の浦ゆ打ち出でて見れば真白にそ 富士の高嶺に雪は降りける        」


万葉集と富士山の噴火とを結びつける発想は、どうやら寺田寅彦の「日本人の自然観」へと結びつけてゆきたくなるのでした。
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