今年は中国関連の本の題名が気になりました(題名と、断ったのはほとんど読んでないからであります)。そのことについて気になった言葉の連想。
文藝春秋2007年1月号の特集「文春・夢の図書館」に、石川好さんが「渾沌の中国がわかる10冊」をあげております。そこから6番目までを順に並べてみます。
① 日本語と中国語 劉徳有著(講談社)
② 貝と羊の中国人 加藤徹著(新潮新書)
③ 世界史のなかの満洲帝国 宮脇淳子著(PHP新書)
④ 中国文明の歴史 岡田英弘著(講談社現代新書)
⑤ 多民族国家中国 王柯著(岩波新書)
⑥ 日本はもう中国に謝罪しなくていい 馬立誠著(文藝春秋)
面白いのは、ここから、二冊の本へと連想の補助線がつながったことです。
山村 修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)
谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)
たとえば、石川好さんは、三番目にあげた「世界史のなかの満洲帝国」を語って
「日本人がこの地域の歴史を理解する上で最良の書物である。それは日中関係だけでなく、
直近の北朝鮮問題の根っ子にも触れるので、この十冊の中では、真っ先に読んでみたい。」
とあります。
谷沢永一著「いつ、何を読むか」には、その宮脇淳子著「世界史のなかの満洲帝国」をとりあげて書いております。「・・・・何時になったら歴史記述が中立的な筆法に到達できるのであろうか。今のところ望み得る最も自己制御に徹して冷静な研究姿勢が宮脇淳子によって示された。女性が感情に走りやすいと陰口を叩かれる習慣が自然消滅に向かっている。殊に現代の我が国では、熟年女性の学問的力量には圧倒的な迫力が感じれらる。夫の岡田英弘が『歴史とはなにか』(文春新書)に論述するところに言及しながら、宮脇淳子はこう言い放つ。歴史には、道徳的価値判断を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである、と。この場合、われわれ日本人の先入見を払拭するために必須の第一歩として、古来、中国には歴史はない、あるのは政治だけである。この判定から宮脇淳子が踏み出す。大賛成である。支那(チャイナ)の正史は悉く政治文書として編纂された。私はかねてから支那史および東洋史は学問として成立しないと考えている。・・・・」
つぎには、四番目にあげられた岡田英弘著「中国文明の歴史」。
石川好さんは「中国史は長大かつ膨大なので、全史を読むには時間も労力も必要とする。それには岡田氏の『中国文明の歴史』は、極めて面白く、日本人の中国史に対する従来の見方に変更を迫るだろう。この書物以外でも岡田氏の著作は、是非読んでみたい。」とあります。
山村修著「狐が選んだ入門書」には、岡田英弘さんのほかの書物「世界史の誕生――モンゴルの発展と伝統」が取り上げられておりました。その紹介の最初はこうです。
「岡田英弘は歴史家のなかの剣客です。史的想像力の剣さばきがするどい。
私が、この人は書斎にこもる研究者タイプとはちょっとちがうぞと感じたのは――たしかに史料の批評的検証の徹底ぶりも有名らしいのですが――、現代のマレーシア連邦を訪れ、そこに古代日本のすがたを見た、という話を読んだときです(『日本史の誕生』弓立社)。」
「岡田英弘による一般向けの本には、歴史的な常識にまっこうから歯向かい、とどめをさすような論断が、あたかもするどい剣先のように、きまっていくつか潜んでいます。それらのうち『日本史の誕生』と並んで、たぶん、もっともするどい切れ味をしめしている一冊が、この『世界史の誕生』でしょう。なにしろ、世界史はモンゴル帝国とともにはじまったという、よくいえば雄大、わるくいえば突飛とさえ思わせる学説でつらぬかれた一冊なのですから。しかし突飛であればあるほど、それを了解しやすいものにするために、より強力な論理を組み立てるのが岡田英弘です。・・・」
ちょいと話題をかえます。
今年。第15回山本七平賞が発表されておりました。
「Voice」の1月号に受賞作の発表と選評が載っておりました。
受賞作は竹田恒泰著「語られなかった皇族たちの真実」(小学館)
特別賞は杉本信行著「大地の咆哮」(PHP研究所)
選考委員の養老孟司さんは、その選評全文を「大地の咆哮」にあてておりました。
ということで、他の委員を差し置いて、その全文を引用。
「中国関係の書物は数多く出版されている。しかし本書は上海総領事だった著者の畢生の力作であり、中国の現状を捉えて読者を放さない。中国は膨大な国であり、もちろん一個人が一冊の書物で書き尽くせるようなものではない。しかし、ただいま現在の『中国の発展』といわれる状況が、本質的にどのような問題を内包しているか、著者はそれを見事に抉り出している。農民の地位の問題、資源としての水の問題、近代都市上海の建築物の問題などについて、多くの読者が目を開かれるにちがいない。本書は今後も長い期間にわたって、現在という時代の記録としても、読みつづけられるものだと信ずる。残念なことに著者はすでに亡くなられたが、本書は自ら死期を知ったうえで、著者がいわば遺言として書かれたものである。それが叙述の強い力になって表れている。かつて丸山眞男氏が『日本政治思想史研究』を戦時下に書かれ、戦後それを改訂しようとしたとき、一語も直すことができなかったと書かれたことがある。ある緊張感の下で書かれた文章は、全体としてまことに動かしようのないものである。人のまさに死なんとする、その言や良し。古言にいうとおりであろう。」
文藝春秋2007年1月号の特集「文春・夢の図書館」に、石川好さんが「渾沌の中国がわかる10冊」をあげております。そこから6番目までを順に並べてみます。
① 日本語と中国語 劉徳有著(講談社)
② 貝と羊の中国人 加藤徹著(新潮新書)
③ 世界史のなかの満洲帝国 宮脇淳子著(PHP新書)
④ 中国文明の歴史 岡田英弘著(講談社現代新書)
⑤ 多民族国家中国 王柯著(岩波新書)
⑥ 日本はもう中国に謝罪しなくていい 馬立誠著(文藝春秋)
面白いのは、ここから、二冊の本へと連想の補助線がつながったことです。
山村 修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)
谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)
たとえば、石川好さんは、三番目にあげた「世界史のなかの満洲帝国」を語って
「日本人がこの地域の歴史を理解する上で最良の書物である。それは日中関係だけでなく、
直近の北朝鮮問題の根っ子にも触れるので、この十冊の中では、真っ先に読んでみたい。」
とあります。
谷沢永一著「いつ、何を読むか」には、その宮脇淳子著「世界史のなかの満洲帝国」をとりあげて書いております。「・・・・何時になったら歴史記述が中立的な筆法に到達できるのであろうか。今のところ望み得る最も自己制御に徹して冷静な研究姿勢が宮脇淳子によって示された。女性が感情に走りやすいと陰口を叩かれる習慣が自然消滅に向かっている。殊に現代の我が国では、熟年女性の学問的力量には圧倒的な迫力が感じれらる。夫の岡田英弘が『歴史とはなにか』(文春新書)に論述するところに言及しながら、宮脇淳子はこう言い放つ。歴史には、道徳的価値判断を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである、と。この場合、われわれ日本人の先入見を払拭するために必須の第一歩として、古来、中国には歴史はない、あるのは政治だけである。この判定から宮脇淳子が踏み出す。大賛成である。支那(チャイナ)の正史は悉く政治文書として編纂された。私はかねてから支那史および東洋史は学問として成立しないと考えている。・・・・」
つぎには、四番目にあげられた岡田英弘著「中国文明の歴史」。
石川好さんは「中国史は長大かつ膨大なので、全史を読むには時間も労力も必要とする。それには岡田氏の『中国文明の歴史』は、極めて面白く、日本人の中国史に対する従来の見方に変更を迫るだろう。この書物以外でも岡田氏の著作は、是非読んでみたい。」とあります。
山村修著「狐が選んだ入門書」には、岡田英弘さんのほかの書物「世界史の誕生――モンゴルの発展と伝統」が取り上げられておりました。その紹介の最初はこうです。
「岡田英弘は歴史家のなかの剣客です。史的想像力の剣さばきがするどい。
私が、この人は書斎にこもる研究者タイプとはちょっとちがうぞと感じたのは――たしかに史料の批評的検証の徹底ぶりも有名らしいのですが――、現代のマレーシア連邦を訪れ、そこに古代日本のすがたを見た、という話を読んだときです(『日本史の誕生』弓立社)。」
「岡田英弘による一般向けの本には、歴史的な常識にまっこうから歯向かい、とどめをさすような論断が、あたかもするどい剣先のように、きまっていくつか潜んでいます。それらのうち『日本史の誕生』と並んで、たぶん、もっともするどい切れ味をしめしている一冊が、この『世界史の誕生』でしょう。なにしろ、世界史はモンゴル帝国とともにはじまったという、よくいえば雄大、わるくいえば突飛とさえ思わせる学説でつらぬかれた一冊なのですから。しかし突飛であればあるほど、それを了解しやすいものにするために、より強力な論理を組み立てるのが岡田英弘です。・・・」
ちょいと話題をかえます。
今年。第15回山本七平賞が発表されておりました。
「Voice」の1月号に受賞作の発表と選評が載っておりました。
受賞作は竹田恒泰著「語られなかった皇族たちの真実」(小学館)
特別賞は杉本信行著「大地の咆哮」(PHP研究所)
選考委員の養老孟司さんは、その選評全文を「大地の咆哮」にあてておりました。
ということで、他の委員を差し置いて、その全文を引用。
「中国関係の書物は数多く出版されている。しかし本書は上海総領事だった著者の畢生の力作であり、中国の現状を捉えて読者を放さない。中国は膨大な国であり、もちろん一個人が一冊の書物で書き尽くせるようなものではない。しかし、ただいま現在の『中国の発展』といわれる状況が、本質的にどのような問題を内包しているか、著者はそれを見事に抉り出している。農民の地位の問題、資源としての水の問題、近代都市上海の建築物の問題などについて、多くの読者が目を開かれるにちがいない。本書は今後も長い期間にわたって、現在という時代の記録としても、読みつづけられるものだと信ずる。残念なことに著者はすでに亡くなられたが、本書は自ら死期を知ったうえで、著者がいわば遺言として書かれたものである。それが叙述の強い力になって表れている。かつて丸山眞男氏が『日本政治思想史研究』を戦時下に書かれ、戦後それを改訂しようとしたとき、一語も直すことができなかったと書かれたことがある。ある緊張感の下で書かれた文章は、全体としてまことに動かしようのないものである。人のまさに死なんとする、その言や良し。古言にいうとおりであろう。」