「ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」という言葉があるそうです。
潮騒を自由気ままに聞くこの地(里)では、映画館へも一日がかり。
そんなわけで、地方にいる私は、まあ映画を見に出かけることは、ありませんのです。
そういうことなので、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」は、観に出かけないことにしております。それでも、気にはなり。その気懸りを癒してくれるのが映画評だったりします。
そこに映画の具体的な箇所が紹介されていると、私は喜びます。
たとえば、「物語は、硫黄島に日本の男たちが残した膨大な数の手紙が掘り出される場面から始まる」とあったり、「2006年、硫黄島の地中から数百通もの大量の手紙が見つかる。61年前、この激戦地で戦った男たちが家族にあてて書き残したものだった・・」という言葉を新聞の映画評のなかに見出すと嬉しくなります。
そして、見には行かない。という立ち位置からの、勝手な連想する愉しみへ。
ということで、ここからは、
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)から以下引用。
(海軍語学校)11ヵ月の詰め込み教育は終り、私は卒業式の総代として告別の辞を読んだ。海軍少尉に任官した語学生一同は、ハワイに送られた。1943年1月。折からガダルカナルの日本軍は、敗色ようやく濃かった。
私に割当てられた仕事は、ガダルカナルで米軍の手に落ちた、日本軍の公私さまざまな文書を翻訳することだった。隊員の健康調査書や隊の備品目録など、訳してもなんの足しにもならない書類ばかりでうんざりしたが、ある日の私は、ふとしたことから日本兵の日記や手紙類を発見し、読む進むうちに深い感動に襲われた。それはとくに、私に課せられていた米軍兵士の信書検閲の印象とくらべるとき、圧倒的な感動だった。
週に一日、私は午前零時から八時まで、米兵が故郷に宛てて書く手紙を検閲しなればならなかったのだが、軍機らしいことは何一つ書かれていないかわり、この上もなく退屈な手紙だった。ある兵士は『今晩もまたブタ肉の料理だ。やりきれない』と書いていた。別の兵士は『ハワイなんていやだ。早くカンサスに帰りたい』と家族に訴えていた。なんのために戦っているのかわからない、早く戦争が終ればいい・・・・。米兵の手紙は、ほとんどが、そのような不平不満のかたまりだった。退屈のあまり、私は二通の手紙の中身を入れ換えてみたり、いたずらによって憂さを忘れようとした。
それにくらべると、日本兵の書いたものは次元が違っていた。ブタ肉やトリ肉の不平はおろか、口に入れるものさえろくにないのがよくわかった。ある日記には、戦死者続出のため十五名になってしまった小隊に正月用の豆が十三粒配給された、どう分配すればよかろうか、という悩みが書かれていた。軍事的情報としてはなんの価値もないが、非常に実感があり、ジャングルの中の日本兵の姿が目に見えるようで、それらの文字は惻々として私の胸を搏った。・・・・
それ以後、アッツやキスカへ行き、レイテ、沖縄へ行き、ささやかな戦歴(と言っても銃は執らなかったが)の間に捕虜との接触を通じて、私は戦争の終るころには一応の日本人観を持つに至った。それは、現在の日本人には当てはまらないかもしれないが、あのころの日本人には通用するものであった。(p34~36)
ドナルド・キーン著「百代の過客 日記にみる日本人」上(朝日選書)の「序 日本人の日記」にも同様の箇所が拾えます。そこも引用しておきましょう。
私が日記への日本人の強い執着に初めて気付いたのは、戦争中のことであった。その時何か月も、私の主な仕事は、戦場に遺棄された日記を翻訳することだったのである。あるものには血痕が付いていて、明らかに戦死した日本兵の遺体から手に入れたものにちがいなかった。またあるものは、海水にひたされたあとがあった。私がこうした日記を読んだのは・・・軍事的価値のある情報が、時として見つかったからである。・・・
日記をつけている兵士の置かれた状況は、彼らの小さな手帖の内容を、しばしば忘れがたいものにしている。例えば船隊の中で、自分の船のすぐ隣を航行していた船が魚雷を受けて目の前で沈むのを見たような時、その兵隊が突然経験する恐怖、これはほとんど文盲に近い兵士の筆によってさえ、見事に伝えられていた。とくに私は、部隊が全滅してただの七人生き残った日本兵が南太平洋のある孤島で正月を過ごした時の記録を憶えている。新年を祝う食物として彼らが持っていたのは、十三粒の豆がすべてであった。彼らはそれを分け合って食べたのだという。
太平洋戦争の戦場となったガダルカナル、タラワ、ペリリュー、その他さまざまな島で入手された日記の書き手であった日本兵に対して、私は深い同情を禁じえなかった。たまたま手にした日記に、何等軍事的な情報が見当たらない時でも、大抵の場合、私は夢中になってそれを読んだ。実際に会ったことはないけれども、そうした日記を書いた人々こそ、私が初めて親しく知るようになった日本人だったのである。そして私が彼らの日記を読んだ頃には、彼らはもうすべて死んでいた。
日本兵の日記は、もう一つ別な理由からも私を感動させた。アメリカの軍人は、日記を付けることは固く禁じられていた。敵の手に渡ることをおそれてのことである。しかしこれは、アメリカ人には何等苦痛も与えなかった。どちらにしても、日記を付ける人間など滅多にいなかったからである。ところが・・・(p14~17)
映画「硫黄島からの手紙」の導入部。掘り出された膨大な手紙を、まずアメリカ人のどなたが読んだのか? 映画を見ない私の連想はそちらへと行ったりします。
それから、引用していたら気付いたのですが、キーンさんの文には、十三粒の豆が同じなのに、15名が7名と人数がちがっておりました。ちょいとした間違いなのかどうか?
潮騒を自由気ままに聞くこの地(里)では、映画館へも一日がかり。
そんなわけで、地方にいる私は、まあ映画を見に出かけることは、ありませんのです。
そういうことなので、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」は、観に出かけないことにしております。それでも、気にはなり。その気懸りを癒してくれるのが映画評だったりします。
そこに映画の具体的な箇所が紹介されていると、私は喜びます。
たとえば、「物語は、硫黄島に日本の男たちが残した膨大な数の手紙が掘り出される場面から始まる」とあったり、「2006年、硫黄島の地中から数百通もの大量の手紙が見つかる。61年前、この激戦地で戦った男たちが家族にあてて書き残したものだった・・」という言葉を新聞の映画評のなかに見出すと嬉しくなります。
そして、見には行かない。という立ち位置からの、勝手な連想する愉しみへ。
ということで、ここからは、
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)から以下引用。
(海軍語学校)11ヵ月の詰め込み教育は終り、私は卒業式の総代として告別の辞を読んだ。海軍少尉に任官した語学生一同は、ハワイに送られた。1943年1月。折からガダルカナルの日本軍は、敗色ようやく濃かった。
私に割当てられた仕事は、ガダルカナルで米軍の手に落ちた、日本軍の公私さまざまな文書を翻訳することだった。隊員の健康調査書や隊の備品目録など、訳してもなんの足しにもならない書類ばかりでうんざりしたが、ある日の私は、ふとしたことから日本兵の日記や手紙類を発見し、読む進むうちに深い感動に襲われた。それはとくに、私に課せられていた米軍兵士の信書検閲の印象とくらべるとき、圧倒的な感動だった。
週に一日、私は午前零時から八時まで、米兵が故郷に宛てて書く手紙を検閲しなればならなかったのだが、軍機らしいことは何一つ書かれていないかわり、この上もなく退屈な手紙だった。ある兵士は『今晩もまたブタ肉の料理だ。やりきれない』と書いていた。別の兵士は『ハワイなんていやだ。早くカンサスに帰りたい』と家族に訴えていた。なんのために戦っているのかわからない、早く戦争が終ればいい・・・・。米兵の手紙は、ほとんどが、そのような不平不満のかたまりだった。退屈のあまり、私は二通の手紙の中身を入れ換えてみたり、いたずらによって憂さを忘れようとした。
それにくらべると、日本兵の書いたものは次元が違っていた。ブタ肉やトリ肉の不平はおろか、口に入れるものさえろくにないのがよくわかった。ある日記には、戦死者続出のため十五名になってしまった小隊に正月用の豆が十三粒配給された、どう分配すればよかろうか、という悩みが書かれていた。軍事的情報としてはなんの価値もないが、非常に実感があり、ジャングルの中の日本兵の姿が目に見えるようで、それらの文字は惻々として私の胸を搏った。・・・・
それ以後、アッツやキスカへ行き、レイテ、沖縄へ行き、ささやかな戦歴(と言っても銃は執らなかったが)の間に捕虜との接触を通じて、私は戦争の終るころには一応の日本人観を持つに至った。それは、現在の日本人には当てはまらないかもしれないが、あのころの日本人には通用するものであった。(p34~36)
ドナルド・キーン著「百代の過客 日記にみる日本人」上(朝日選書)の「序 日本人の日記」にも同様の箇所が拾えます。そこも引用しておきましょう。
私が日記への日本人の強い執着に初めて気付いたのは、戦争中のことであった。その時何か月も、私の主な仕事は、戦場に遺棄された日記を翻訳することだったのである。あるものには血痕が付いていて、明らかに戦死した日本兵の遺体から手に入れたものにちがいなかった。またあるものは、海水にひたされたあとがあった。私がこうした日記を読んだのは・・・軍事的価値のある情報が、時として見つかったからである。・・・
日記をつけている兵士の置かれた状況は、彼らの小さな手帖の内容を、しばしば忘れがたいものにしている。例えば船隊の中で、自分の船のすぐ隣を航行していた船が魚雷を受けて目の前で沈むのを見たような時、その兵隊が突然経験する恐怖、これはほとんど文盲に近い兵士の筆によってさえ、見事に伝えられていた。とくに私は、部隊が全滅してただの七人生き残った日本兵が南太平洋のある孤島で正月を過ごした時の記録を憶えている。新年を祝う食物として彼らが持っていたのは、十三粒の豆がすべてであった。彼らはそれを分け合って食べたのだという。
太平洋戦争の戦場となったガダルカナル、タラワ、ペリリュー、その他さまざまな島で入手された日記の書き手であった日本兵に対して、私は深い同情を禁じえなかった。たまたま手にした日記に、何等軍事的な情報が見当たらない時でも、大抵の場合、私は夢中になってそれを読んだ。実際に会ったことはないけれども、そうした日記を書いた人々こそ、私が初めて親しく知るようになった日本人だったのである。そして私が彼らの日記を読んだ頃には、彼らはもうすべて死んでいた。
日本兵の日記は、もう一つ別な理由からも私を感動させた。アメリカの軍人は、日記を付けることは固く禁じられていた。敵の手に渡ることをおそれてのことである。しかしこれは、アメリカ人には何等苦痛も与えなかった。どちらにしても、日記を付ける人間など滅多にいなかったからである。ところが・・・(p14~17)
映画「硫黄島からの手紙」の導入部。掘り出された膨大な手紙を、まずアメリカ人のどなたが読んだのか? 映画を見ない私の連想はそちらへと行ったりします。
それから、引用していたら気付いたのですが、キーンさんの文には、十三粒の豆が同じなのに、15名が7名と人数がちがっておりました。ちょいとした間違いなのかどうか?