ドナルド・キーンさんと謡曲。
ドナルド・キーンさんと徒然草。
そんな並べ方があるならば、私が次に興味をもつのは、キーンさんと柳田国男。
何のことはない、私が柳田国男を読みたいばかりに、キーンさんはどのように語っているのか知りたくなったわけです。
という興味から、まずは鼎談の「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)のp223を引用しておきます。
【キーン】毎年、だいたい八か月日本にいますけれども、ある年、日本の自然主義文学について一章を書きました。そのためにたくさん読まなければなりませんでしたが、あまり好きでないようなものが多かったですから・・・。しかたがないから読みましたが。
【瀬戸内寂聴】面白くないですねえ。
【鶴見俊輔】自然主義文学に対する反発の一つは石川啄木に、もう一つは柳田國男でしょう。
【キーン】はい、そうです。
【鶴見】両方が、その批判は妥当ですよね。・・・・
ちょいと、これだけでは、わかったようでわからない。
ちなみに、この鼎談で鶴見俊輔さんはキーンさんの「『声の残り――私の文壇交遊録』というのは素晴らしいですね」と語っております(p56)。鶴見さんは、繰り返してp85でも「『声の残り』は、どう考えても傑作なんですね。・・・」と語っております。
それじゃあ、というわけでこの本を取り寄せてみますと、これが簡潔な蒸留酒のような交友録の記述になっており、このテキストをもとに鶴見さんはキーンさんに、鼎談であれこれと話をむけておられるのだなあ、とわかります。それは短い詩から、さまざまな背景をひきだしてゆくような按配で、鼎談に、魅力ある素材を提供してくれる本の一冊として登場しておりました。
ということで、ドナルド・キーン著(金関寿夫訳)「声の残り 私の文壇交遊録」(朝日新聞社・1992年)を語ります。その目次は18名の名前が並んでおりました。私が興味を持ったのは「木下順二」を回想した箇所でした。
そういえば、今年(2006年)の10月30日。木下順二さんは92歳で亡くなっておられます。私は中学三年の国語の教科書に「夕鶴」が載っていて授業を受けたことを思い出します。
では「声の残り」にある「木下順二」と題した文を見てみます。
「1953年から55年まで、私が日本に滞在出来るようになったのは、フォード財団基金のおかげであった。・・」とはじまっております。
以下、興味深い箇所を拾ってみます。
「これはちょっと信じがたいことかもしれないが、私は日本に住み始める前に、すでに『古今集』を全巻、『方丈記』『徒然草』などを精読していた。また近松門左衛門について博士論文を書いたために、浄瑠璃の歴史に関しては、かなり詳しかったし、それに夏目漱石その他の、近代作家のものも、少々は読んでおり、そして日本文学作品で、英語やフランス語に訳されたものには、すべて目を通していた。」
「日本の伝統的主題を、意識的に使っている作家で、私が会った最初の人は、木下順二だった。1954年に、京都から東京を訪れた際に、嶋中鵬二が紹介してくれたのだ。当時木下の劇『夕鶴』は、同時代の日本演劇で、最も人気のある芝居であった。・・・この戯曲を読んだ時、私も夢中になった。そしてすぐ英訳に取りかかった。・・・しかしその頃の私は、翻訳者としては、まだまったくの駆け出しにすぎなかった。とにかく『夕鶴』の英訳は、誰か他の人によって完成された。そしてわが意に満たない私自身の訳稿は、ついに陽の目を見ることなく、もう大分前に、どこかへ散逸してしまったのである。」
最後は、三島由紀夫と柳田国男とが出てくるので丁寧に引用しておきます。
「最初の日本滞在の間、私は時々木下に会うことがあった。『夕鶴』だけではなく、私は彼の、他の戯曲にも感銘を受けていた。しかし、私がより深い関心を持っていたのは、日本の民俗伝統よりは、文学的伝統のほうであった。私はいつか、木下に、小野小町伝説を材料にして、劇を書いてみる気はないか、と水を向けてみた。だが彼はその時、すでにそれぞれ見事な劇作に結晶している民俗的主題から外れてゆく気は、とくになさそうであった。小野小町について劇を書いてはと、木下に提案した時には知らなかったが、三島由紀夫がまさにそのことを、すでにやっていたのだ。三島は、東西の古典文学を自分の劇の典拠にするのを好んでいた。しかしいつだったか三島が、柳田国男の『遠野物語』を読めと、しきりに奨めてくれたことがあった。すなわち、彼とても、古い民話などの持つ美しさに、決して鈍感だったわけではないということだ。しかし私は、『遠野物語』には、一向に感銘を受けなかった。その理由は、やっと数年前、河合隼雄の『昔話と日本人の心』を読んだ時に、納得出来た。西洋人は、典型的な西欧民話の持つ――最後に勇士が、お姫様から結婚の承諾を得る、といったような――クライマックスに馴れている。だからクライマックスもなく、常にがっかりするような、またしばしば悲劇的な終わり方をする日本民話には、何か物足りなさを感じるのだ。勿論『夕鶴』は、この例外である。それにしても、日本の民話を、見事に劇化した木下の功績は、決して小さいものではなかった。」
キーンさんの、民俗伝統から文学的伝統へ、という指摘が私には新鮮でした。
キーンさんからみた、木下順二と三島由紀夫というのも視点の鮮やかさを抱きます。
ありがたい。ありがたい。
ドナルド・キーンさんと徒然草。
そんな並べ方があるならば、私が次に興味をもつのは、キーンさんと柳田国男。
何のことはない、私が柳田国男を読みたいばかりに、キーンさんはどのように語っているのか知りたくなったわけです。
という興味から、まずは鼎談の「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)のp223を引用しておきます。
【キーン】毎年、だいたい八か月日本にいますけれども、ある年、日本の自然主義文学について一章を書きました。そのためにたくさん読まなければなりませんでしたが、あまり好きでないようなものが多かったですから・・・。しかたがないから読みましたが。
【瀬戸内寂聴】面白くないですねえ。
【鶴見俊輔】自然主義文学に対する反発の一つは石川啄木に、もう一つは柳田國男でしょう。
【キーン】はい、そうです。
【鶴見】両方が、その批判は妥当ですよね。・・・・
ちょいと、これだけでは、わかったようでわからない。
ちなみに、この鼎談で鶴見俊輔さんはキーンさんの「『声の残り――私の文壇交遊録』というのは素晴らしいですね」と語っております(p56)。鶴見さんは、繰り返してp85でも「『声の残り』は、どう考えても傑作なんですね。・・・」と語っております。
それじゃあ、というわけでこの本を取り寄せてみますと、これが簡潔な蒸留酒のような交友録の記述になっており、このテキストをもとに鶴見さんはキーンさんに、鼎談であれこれと話をむけておられるのだなあ、とわかります。それは短い詩から、さまざまな背景をひきだしてゆくような按配で、鼎談に、魅力ある素材を提供してくれる本の一冊として登場しておりました。
ということで、ドナルド・キーン著(金関寿夫訳)「声の残り 私の文壇交遊録」(朝日新聞社・1992年)を語ります。その目次は18名の名前が並んでおりました。私が興味を持ったのは「木下順二」を回想した箇所でした。
そういえば、今年(2006年)の10月30日。木下順二さんは92歳で亡くなっておられます。私は中学三年の国語の教科書に「夕鶴」が載っていて授業を受けたことを思い出します。
では「声の残り」にある「木下順二」と題した文を見てみます。
「1953年から55年まで、私が日本に滞在出来るようになったのは、フォード財団基金のおかげであった。・・」とはじまっております。
以下、興味深い箇所を拾ってみます。
「これはちょっと信じがたいことかもしれないが、私は日本に住み始める前に、すでに『古今集』を全巻、『方丈記』『徒然草』などを精読していた。また近松門左衛門について博士論文を書いたために、浄瑠璃の歴史に関しては、かなり詳しかったし、それに夏目漱石その他の、近代作家のものも、少々は読んでおり、そして日本文学作品で、英語やフランス語に訳されたものには、すべて目を通していた。」
「日本の伝統的主題を、意識的に使っている作家で、私が会った最初の人は、木下順二だった。1954年に、京都から東京を訪れた際に、嶋中鵬二が紹介してくれたのだ。当時木下の劇『夕鶴』は、同時代の日本演劇で、最も人気のある芝居であった。・・・この戯曲を読んだ時、私も夢中になった。そしてすぐ英訳に取りかかった。・・・しかしその頃の私は、翻訳者としては、まだまったくの駆け出しにすぎなかった。とにかく『夕鶴』の英訳は、誰か他の人によって完成された。そしてわが意に満たない私自身の訳稿は、ついに陽の目を見ることなく、もう大分前に、どこかへ散逸してしまったのである。」
最後は、三島由紀夫と柳田国男とが出てくるので丁寧に引用しておきます。
「最初の日本滞在の間、私は時々木下に会うことがあった。『夕鶴』だけではなく、私は彼の、他の戯曲にも感銘を受けていた。しかし、私がより深い関心を持っていたのは、日本の民俗伝統よりは、文学的伝統のほうであった。私はいつか、木下に、小野小町伝説を材料にして、劇を書いてみる気はないか、と水を向けてみた。だが彼はその時、すでにそれぞれ見事な劇作に結晶している民俗的主題から外れてゆく気は、とくになさそうであった。小野小町について劇を書いてはと、木下に提案した時には知らなかったが、三島由紀夫がまさにそのことを、すでにやっていたのだ。三島は、東西の古典文学を自分の劇の典拠にするのを好んでいた。しかしいつだったか三島が、柳田国男の『遠野物語』を読めと、しきりに奨めてくれたことがあった。すなわち、彼とても、古い民話などの持つ美しさに、決して鈍感だったわけではないということだ。しかし私は、『遠野物語』には、一向に感銘を受けなかった。その理由は、やっと数年前、河合隼雄の『昔話と日本人の心』を読んだ時に、納得出来た。西洋人は、典型的な西欧民話の持つ――最後に勇士が、お姫様から結婚の承諾を得る、といったような――クライマックスに馴れている。だからクライマックスもなく、常にがっかりするような、またしばしば悲劇的な終わり方をする日本民話には、何か物足りなさを感じるのだ。勿論『夕鶴』は、この例外である。それにしても、日本の民話を、見事に劇化した木下の功績は、決して小さいものではなかった。」
キーンさんの、民俗伝統から文学的伝統へ、という指摘が私には新鮮でした。
キーンさんからみた、木下順二と三島由紀夫というのも視点の鮮やかさを抱きます。
ありがたい。ありがたい。