和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

今年の「坊っちゃん」。

2006-12-04 | Weblog
今年は夏目漱石の「坊っちゃん」をはじめて読みました。
ということで、「坊っちゃん」を取り上げます。
なんてったって、今年は「坊っちゃん」百年なのだそうです。

馬場練成著「物理学校」(中公新書ラクレ)のp211~214に
漱石と物理学校の接点が語られており興味深いのでした。

それにつられて「坊っちゃん」を読んだのですが、
おかげで中村吉広著「チベット語になった『坊っちゃん』」(山と渓谷社)を読めた。
それに、平岡敏夫著「『坊っちゃん』の世界」(塙新書)にも手が伸びました。

飛ヶ谷美穂子著「漱石の源泉」(慶応義塾大学出版会)で
「坊っちゃん」関連箇所をひろってみると、その頃の手紙が引用してありました。
高浜虚子へ書いていたものです。
「・・実は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇体なものにて十分に三十秒位づつ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と湧くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから沢山なものに候。・・・此うちにて物になるのは百に一つ位に候。・・・然しとにかく妙な気分になり候。小生は之を称して人工的インスピレーションとなづけ候。」
飛ヶ谷氏はこの時期にメレディス作品を読んでいたことを明らかにしております。

ちょいと寄り道しますが、
今年。10月30日白川静(96歳)が亡くなりました。
漢学研究の第一人者で文化勲章受賞者。追悼文には
谷川健一「偉大な独学者の魂」(日経新聞11月5日)。
加地伸行「そびえ立つ中国古代学の泰斗」(産経11月7日)。
などを読みました。そんななかに
山折哲雄「白川静さんを悼む」(読売新聞11月3日)に
こんな言葉がありました。
「今年の正月だったと思う。ある新聞に寄稿された白川さんが、日本国家の今後のあり方について情熱的に語っておられたことが忘れられない。歴史の深層に視点を定め、伝統文化再興の重要性に言及する筆致には若々しいエネルギーが脈打っていた。」

その新聞寄稿文は残念読めなかったのですが、雑誌「文学界」2006年7月号の特集「国語再建」に、白川静氏の文が掲載されておりました。こちらを読むことができました。
そこに
「・・・以来、1300年程、日本人は漢字に親しみ、さまざまな試行錯誤を重ねて、漢字のいろいろな可能性を究めてきたのです。たとえば江戸時代には、極端に漢字を使う、あるいは極端に漢字を嫌うということが行われたり、明治時代に入ると、漢文調の難しいものがたくさん書かれた。そして、ようやく国民的な文学を書くことが可能になるほどに、文章が成熟したのが明治の後半であり、おそらく明治の終わりから大正期には、日本の文字文化は完成期を迎えたと言える。ところが、大正期になってほぼ完成したというときに、軍国主義が興って、また四角い字ばかりを無雑作に並べるようなことになってしまった。その結果、日本の文字は滅びたのです。日本語の表現力がほぼ完成期に達したのは、明治の終わりから大正の初期、具体的には漱石とその一門が活躍した時代であるという風に考えてよい。その時代を目標にして日本の文字政策というものを考えるべきだと思います。」(p125~126)

ところで、この10月に
坪内祐三著「『近代日本文学』の誕生 百年前の文壇を読む」(PHP新書)が新刊として出たところです。
その「はじめに」で坪内氏はこう書いておりました。
「普通、『近代日本文学』の誕生は、二葉亭四迷や山田美妙らが言文一致を試みた明治二十一、二年頃と見るのが定説です。しかし私は、あえて、明治三十九年が、つまり新人作家夏目漱石が代表作を次々と発表し、島崎藤村の『破戒』が刊行されたこの年こそが、真の意味での『近代日本文学』誕生の年だと思い(この評論を書き続けている内に気づき)、このようなタイトルをつけました。つまり今年(2006年)は『近代日本文学』が誕生してから丁度百年目に当たるのです。・・・・・もう一度言います。丁度百年前の今頃、『近代日本文学』は誕生したのです。」

坪内さんの「『近代日本文学』誕生」という文壇言葉よりも、
白川さんの「日本語の表現力がほぼ完成期に達した」という表現のほうがスケールが大きくて、私は心躍ります。
なぜって、私は島崎藤村やら、そのころの作家を読む気がおこらないのです。
それよりも百年前に誕生した「坊っちゃん」の漱石を思うだけでいいや。
コメント
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