このブログでの書き始めにメッセージを頂いた北祭さん。
その北祭さんが、bk1の「書評の鉄人列伝」に登場しておりました。
そのコメントを楽しく拝見。
「 本棚にはいつか読もうと思っている古書や新書が山のようにある。いったい、本当に好きなのは、読書なのか、蒐集なのか。どちらも、まず選ぶことから始まるのだが、それが自分にはとても贅沢な時間。魅力ある書評を読むのもまた贅沢なひとときで、試しに書いてみるとこれが楽しく、以来、ぽつぽつと書き続けている。」
お仲間の北祭さんなので、興味深く思いながら読ませていただきました。
コメントは、本棚から始まっていたので、私の連想は「本棚・書棚」へとひろがります。
ちょうど、ドナルド・キーンさんの本を眺めているところなので、そこから。
たとえば、源氏物語を英訳したウェーリー先生について語る箇所に
「私はロンドンへ出るたびに先生の御宅を訪ねたが、先生がなにかの用事で部屋を出られることがあり、そんなときには一人でゆっくりと本棚を見る時間があった。蔵書はあまねく東西の文学は言うに及ばず、人類学や言語学に至るまで、文字どおり汗牛充棟であった。漢訳大蔵経の中でもっとも完備したものとされている『大正新修大蔵経』が、百巻になんなんとする背を並べているのを見て、私は胆をつぶした。それらの本は、決して本棚の飾りではなかった。すべて手垢にまみれ、装丁の裂けているものさえあった。・・・」(「日本文学のなかへ」文芸春秋社・p89)
大蔵経なんて、ちっとも知らないわけですが、それでも本棚を眺めているキーンさんの心持は、何となく私にも伝わってくるような気持ちになります。
そのキーンさんの本を本棚からとりだす様子が書かれた箇所もありました。
ドナルド・キーン著(大庭みな子訳)「古典の愉しみ」宝島社文庫。
その解説は瀬戸内寂聴さん。こうはじまります。
「ドナルド・キーン氏は日本人の国文学者よりも小説家よりも、日本文学に精通したアメリカ人である。・・・日本語で、数々の日本の古典文学についての名著がある。私など必要に迫られると日本の文学者の本より本棚に並んでいるキーン氏の著作の中から必要なものを引き抜いて参考にさせていただく。正確無比で、わかり易く、文章が明晰なので、失礼だが、『役に立つ』御本ばかりなのである。」
寂聴さんは、日本の教授や国文学者などではないので、直裁に良いものを判断して、そのままに語ってくれているので、ありがたくも貴重なご意見。
寂聴さんは、その後にキーンさんの会話を引用しております。
ちょうどウェーリーさんの御本のエピソードでした。
「私が日本文学のとりこになってしまった最初のきっかけは、まだ学生の頃、古本屋街で本あさりをしていたら、店の前に出した台の上に山盛りになっていた安い古本の中で、一番厚くて、一番値の安い本を見つけて、即座に買ったのです。学生の懐の淋しい私でも、すぐ買える値段だったのです。その本が源氏物語でした」。
ということで古本・古書へと、つながります。
キーンさんの戦後二年間の京都滞在中のことが「日本文学のなかへ」(p174~)に出てきます。
「二年間の滞日中、ことに後半はよく京都から出歩くようになった私だった、ふだん京都にいるときには、町に出るとしきりに古書を漁った。当時の京都は、古本屋をたどって歩くだけでも楽しい町だった。・・・
あのころ、丸太町を、あるいは寺町を、本屋から本屋へとだとって歩いているうちに、なんという本屋のどの棚にはどんな本があるか、ほぼ呑み込んでしまった。なかでも一番の楽しみは、近松全集の例のように、上巻と中巻と下巻を別々の店で安く買って、【自分で全集をつくる】ことであった。まとめて買えば簡単だが、あの楽しみだけは余事をもって代えがたい。一日一日が貴重だった日本留学に、古本屋の巡礼は時間の浪費ではないかと考える人もいるだろうが、私は古書を眺めながら過ごす時間を浪費とは考えない。・・・
最近では、古本屋をまわる楽しみが少なくなった。いまでもときどき、神田へ出て古書を漁ってみるが、全然面白くない。古書店でなければお目にかかれないような本が減ったし、たまに面白いものがあっても、一万五千円とか二万円といった、べらぼうな値段がついている。そんな値段の本なら、私は図書館へ行って読もうと思う。安くていい古本が、近ごろは、ほどんどなくなった。昔は古書店めぐりがほんとうに楽しみだった。集める楽しみのほかに、特定の本を見つけることによって自分の研究の転機をつかむことさえできたのである。昭和三十年の五月、こうしているうちに日本を離れなければならない日が来た。・・・・」
そういえば、ドナルド・キーンさんのコロンビア大学の師・角田柳作先生の本が
ネットで検索したら一冊ありました。「井原西鶴」(明治30年)。
値段はと見ると18,900円。残念、1890円なら買って読んでみたいのになあ(笑)。
検索にひっかかっただけでも、よしとします。
北祭さん。「書評の鉄人列伝」ご登場おめでとうございます。
コメントが親しく身近に感じられましたので、ちょうど思い浮かんだことを並べました。
その北祭さんが、bk1の「書評の鉄人列伝」に登場しておりました。
そのコメントを楽しく拝見。
「 本棚にはいつか読もうと思っている古書や新書が山のようにある。いったい、本当に好きなのは、読書なのか、蒐集なのか。どちらも、まず選ぶことから始まるのだが、それが自分にはとても贅沢な時間。魅力ある書評を読むのもまた贅沢なひとときで、試しに書いてみるとこれが楽しく、以来、ぽつぽつと書き続けている。」
お仲間の北祭さんなので、興味深く思いながら読ませていただきました。
コメントは、本棚から始まっていたので、私の連想は「本棚・書棚」へとひろがります。
ちょうど、ドナルド・キーンさんの本を眺めているところなので、そこから。
たとえば、源氏物語を英訳したウェーリー先生について語る箇所に
「私はロンドンへ出るたびに先生の御宅を訪ねたが、先生がなにかの用事で部屋を出られることがあり、そんなときには一人でゆっくりと本棚を見る時間があった。蔵書はあまねく東西の文学は言うに及ばず、人類学や言語学に至るまで、文字どおり汗牛充棟であった。漢訳大蔵経の中でもっとも完備したものとされている『大正新修大蔵経』が、百巻になんなんとする背を並べているのを見て、私は胆をつぶした。それらの本は、決して本棚の飾りではなかった。すべて手垢にまみれ、装丁の裂けているものさえあった。・・・」(「日本文学のなかへ」文芸春秋社・p89)
大蔵経なんて、ちっとも知らないわけですが、それでも本棚を眺めているキーンさんの心持は、何となく私にも伝わってくるような気持ちになります。
そのキーンさんの本を本棚からとりだす様子が書かれた箇所もありました。
ドナルド・キーン著(大庭みな子訳)「古典の愉しみ」宝島社文庫。
その解説は瀬戸内寂聴さん。こうはじまります。
「ドナルド・キーン氏は日本人の国文学者よりも小説家よりも、日本文学に精通したアメリカ人である。・・・日本語で、数々の日本の古典文学についての名著がある。私など必要に迫られると日本の文学者の本より本棚に並んでいるキーン氏の著作の中から必要なものを引き抜いて参考にさせていただく。正確無比で、わかり易く、文章が明晰なので、失礼だが、『役に立つ』御本ばかりなのである。」
寂聴さんは、日本の教授や国文学者などではないので、直裁に良いものを判断して、そのままに語ってくれているので、ありがたくも貴重なご意見。
寂聴さんは、その後にキーンさんの会話を引用しております。
ちょうどウェーリーさんの御本のエピソードでした。
「私が日本文学のとりこになってしまった最初のきっかけは、まだ学生の頃、古本屋街で本あさりをしていたら、店の前に出した台の上に山盛りになっていた安い古本の中で、一番厚くて、一番値の安い本を見つけて、即座に買ったのです。学生の懐の淋しい私でも、すぐ買える値段だったのです。その本が源氏物語でした」。
ということで古本・古書へと、つながります。
キーンさんの戦後二年間の京都滞在中のことが「日本文学のなかへ」(p174~)に出てきます。
「二年間の滞日中、ことに後半はよく京都から出歩くようになった私だった、ふだん京都にいるときには、町に出るとしきりに古書を漁った。当時の京都は、古本屋をたどって歩くだけでも楽しい町だった。・・・
あのころ、丸太町を、あるいは寺町を、本屋から本屋へとだとって歩いているうちに、なんという本屋のどの棚にはどんな本があるか、ほぼ呑み込んでしまった。なかでも一番の楽しみは、近松全集の例のように、上巻と中巻と下巻を別々の店で安く買って、【自分で全集をつくる】ことであった。まとめて買えば簡単だが、あの楽しみだけは余事をもって代えがたい。一日一日が貴重だった日本留学に、古本屋の巡礼は時間の浪費ではないかと考える人もいるだろうが、私は古書を眺めながら過ごす時間を浪費とは考えない。・・・
最近では、古本屋をまわる楽しみが少なくなった。いまでもときどき、神田へ出て古書を漁ってみるが、全然面白くない。古書店でなければお目にかかれないような本が減ったし、たまに面白いものがあっても、一万五千円とか二万円といった、べらぼうな値段がついている。そんな値段の本なら、私は図書館へ行って読もうと思う。安くていい古本が、近ごろは、ほどんどなくなった。昔は古書店めぐりがほんとうに楽しみだった。集める楽しみのほかに、特定の本を見つけることによって自分の研究の転機をつかむことさえできたのである。昭和三十年の五月、こうしているうちに日本を離れなければならない日が来た。・・・・」
そういえば、ドナルド・キーンさんのコロンビア大学の師・角田柳作先生の本が
ネットで検索したら一冊ありました。「井原西鶴」(明治30年)。
値段はと見ると18,900円。残念、1890円なら買って読んでみたいのになあ(笑)。
検索にひっかかっただけでも、よしとします。
北祭さん。「書評の鉄人列伝」ご登場おめでとうございます。
コメントが親しく身近に感じられましたので、ちょうど思い浮かんだことを並べました。