新刊・谷沢永一著「知識ゼロからの徒然草入門」(幻冬舎)を、bk1に注文しました。
ということで、新刊が届くまで、せっかくだから、徒然草の話。
まず、谷沢永一・渡部昇一著「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)で、注目した箇所。
渡部氏が語ります。
「古典で読みながら小膝を打って、『ああ、そうか』といえるものといえば、
真っ先に挙げられるものは、やはり『徒然草』でしょう。あれは真のエッセイです。・・」(p152)。
それに答えて谷沢氏が
「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。『徒然草』がなければ、たとえば井原西鶴の『好色一代男』はなかったろうといわれている。つまり初めて人情というものを著作のテーマにした史上空前の記述なのです。『徒然草』にいたって、しみじみと人生の味わいを語るという新しい分野が広がりました。『徒然草』があったから、西鶴が人情をテーマの中心に据え、それから伊藤仁斎が学問の方面で人情をテーマにするということができたといってもいい。全部源流は『徒然草』。・・・今までの注釈評釈で一番いいのは、沼波瓊音(武夫)の『徒然草講話』。学者的軽薄さがない。昭和の国文学者で、この沼波瓊音に啓発されて、国文学者は捨てたものではないと思った人が何人いるかといわれるぐらいです。・・・」(p153)
ところで、ドナルド・キーンさんの恩師に角田柳作先生がおりました。その先生は「明治30年に20歳で『井原西鶴』という本を出した。単行本として最初の西鶴の研究であった。」とドナルド・キーン著「日本との出会い」(中公文庫・p142)にあります。
谷沢氏のいうところの、徒然草→西鶴→伊藤仁斎という流れは、それはどのようなものなのか?
残念。角田先生の本は読めませんが、沼波瓊音著「徒然草講話」(東京修文館・大正14年)の中の最後に「兼好法師」と題した文が載っておりました。
そこにこんな箇所があります。
「・・・徒然草と俳諧とをも繋いでいる。西鶴は如何に兼好に刺激されたか。芭蕉は如何に兼好を慕うたか。その各の作品と、徒然草とを読比べると、誰でも其程度が直ぐ解る。西鶴と芭蕉は、実に兼好の門弟子の高足なるものであつたのだ。支考は、芭蕉庵で師翁と徒然草を論じたことを書いてる。このやうな事はしばしばあつたのであらう。松平定信は、源氏を桜に、伊勢を梅に、狭衣を山吹に、而して徒然草を、『菊もて作りたる薬玉』に比してゐる。徳川時代の文学と云ものを考へると、誰も、その指導者の著しき一人として兼好を認めぬ訳には行かぬ。徒然草の言ひ方の模倣形式の模倣のみのものでも随分沢山出来てゐる。水谷不倒氏が『源氏物語枕草紙が文学の師表と仰がれしは今更いふまでも無きことながら、徳川時代に至りて兼好法師の徒然草の如くまた俗文学の模範となりし書も稀なり。・・・・』」
このように続いて書かれております。
ここで、話題を角田柳作先生とドナルド・キーンさんへともどします。
「日本との出会い」(中公文庫)の中に
「私は戦前三ヵ月ばかり先生の講義を聞いたが、どちらかといえば戦後派である。昭和21年2月に除隊になるやいなや、何よりも先生の講義を楽しみにして大学院に戻った。先生に教わった学生は五、六人あり、皆私と同様に戦争中軍人として日本語をやって来た者で、四年間も学校を離れたので学問に対して非常な憧れを感じていた。先生に余分の講義をねだって、先生にはしまいに日本古典文学の授業だけで毎日2時間以上教えていた。『源氏物語』の須磨、明石の巻、『つれづれ草』、『枕草子』、謡曲の『松風』や『卒塔婆小町』、『好色五人女』、『奥の細道』等々を三ヵ学期で読み終えた。外国で僅かの間にそんなに日本古典文学を読むことは多分新記録であったろう。しかも、日本語以外に先生は日本歴史と日本思想史を教えていた。思想史の授業は五時に終ることになっていたが、六時半前に終ることは珍しくて、学生たちは忠実に最後まで聞いていた。・・・」(p143~144)
こんな箇所があります。
「先生はどんな作品について講義をしていても、その文学的価値をみごとに理解させ、私たちはむずかしい古典をたどたどと読みながら文章の美に打たれていた。先生はもう何百回も『つれづれ草』などを読んだことがあろうが、兼好法師の傑作を初めて発見したような熱意と喜楽が溢れる声で文章のうまさを伝えた。・・」(p146)
こうして引用すると、つぎにキーンさんの「日本文学のなかへ」(文芸春秋社)もつづけて引用したくなります。
「・・・角田先生に対するあたたかい気持も、宣長の偉大な思想も、日本文学そのものの美しさから私が受けた感動には、くらぶべくもなかった。とくに『徒然草』は、私の目を日本の伝統に向かって開いた。
あだし野の露きゆる時なく、
鳥部山の烟立(けぶりたち)さらでのみ住はつる習ひならば、
いかに、もののあはれもなからん。
世はさだめなきこそ、いみじけれ。
第七段のこの一節を、私は感動のあまり、日本語の全然わからない友人に読み聞かせた。
・・・・・・・・
『さだめなきこそ、いみじけれ』という美意識を、人は日本以外のどこに求めうるだろうか。それは、西欧文化の底を流れる古代ギリシャの思想を、真向から否定したもの、そして真に日本的なるもの、である。・・・
私は学部にいたころ、しきりにギリシャ悲劇を読んだが、『徒然草』とは逆の考えかたが、いたるところに出てくるのである。ものは、なるべく消えないのがいい、年古りないように、というのがギリシャの理想だった。『いみじき』にはいろんな意味があるが、兼好法師はここでは明らかに、いい意味に使っている。」(p73~74)
ここから、ドナルド・キーン著「古典の愉しみ」(宝島社文庫)の最初へとつなげて行っても楽しいのでした。
その第一章「日本の美学」はこうはじまっておりました。
「僅か数ページで日本の美学の全貌を説明しつくし、数百年にわたって育てられてきた日本人の美意識について語るのは難しい。日本文化の中核になっている日本人の美意識を抜きにして日本文化の特徴を語るのはさらに困難なことである。私は日本人の特質を一冊の書物『徒然草』に関連して書いてみようと思う。・・・」
ところで、簡単に徒然草を語っている人たちの何冊かを覗いてみたのですが、
小林秀雄から、徒然草に興味をもったという人はいるのですけれども、
どなたも、ドナルド・キーンに言及しておられる方がいませんでした。
もったいないなあ。
これからの徒然草の、水先案内には、ドナルド・キーンさんが
欠かせないように私は思ったわけです。
さて、谷沢永一氏の新刊に、ドナルド・キーンさんの名前が出てくるかどうか?
そんなことを、チェックするのも私は楽しみにしております。
ということで、新刊が届くまで、せっかくだから、徒然草の話。
まず、谷沢永一・渡部昇一著「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)で、注目した箇所。
渡部氏が語ります。
「古典で読みながら小膝を打って、『ああ、そうか』といえるものといえば、
真っ先に挙げられるものは、やはり『徒然草』でしょう。あれは真のエッセイです。・・」(p152)。
それに答えて谷沢氏が
「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。『徒然草』がなければ、たとえば井原西鶴の『好色一代男』はなかったろうといわれている。つまり初めて人情というものを著作のテーマにした史上空前の記述なのです。『徒然草』にいたって、しみじみと人生の味わいを語るという新しい分野が広がりました。『徒然草』があったから、西鶴が人情をテーマの中心に据え、それから伊藤仁斎が学問の方面で人情をテーマにするということができたといってもいい。全部源流は『徒然草』。・・・今までの注釈評釈で一番いいのは、沼波瓊音(武夫)の『徒然草講話』。学者的軽薄さがない。昭和の国文学者で、この沼波瓊音に啓発されて、国文学者は捨てたものではないと思った人が何人いるかといわれるぐらいです。・・・」(p153)
ところで、ドナルド・キーンさんの恩師に角田柳作先生がおりました。その先生は「明治30年に20歳で『井原西鶴』という本を出した。単行本として最初の西鶴の研究であった。」とドナルド・キーン著「日本との出会い」(中公文庫・p142)にあります。
谷沢氏のいうところの、徒然草→西鶴→伊藤仁斎という流れは、それはどのようなものなのか?
残念。角田先生の本は読めませんが、沼波瓊音著「徒然草講話」(東京修文館・大正14年)の中の最後に「兼好法師」と題した文が載っておりました。
そこにこんな箇所があります。
「・・・徒然草と俳諧とをも繋いでいる。西鶴は如何に兼好に刺激されたか。芭蕉は如何に兼好を慕うたか。その各の作品と、徒然草とを読比べると、誰でも其程度が直ぐ解る。西鶴と芭蕉は、実に兼好の門弟子の高足なるものであつたのだ。支考は、芭蕉庵で師翁と徒然草を論じたことを書いてる。このやうな事はしばしばあつたのであらう。松平定信は、源氏を桜に、伊勢を梅に、狭衣を山吹に、而して徒然草を、『菊もて作りたる薬玉』に比してゐる。徳川時代の文学と云ものを考へると、誰も、その指導者の著しき一人として兼好を認めぬ訳には行かぬ。徒然草の言ひ方の模倣形式の模倣のみのものでも随分沢山出来てゐる。水谷不倒氏が『源氏物語枕草紙が文学の師表と仰がれしは今更いふまでも無きことながら、徳川時代に至りて兼好法師の徒然草の如くまた俗文学の模範となりし書も稀なり。・・・・』」
このように続いて書かれております。
ここで、話題を角田柳作先生とドナルド・キーンさんへともどします。
「日本との出会い」(中公文庫)の中に
「私は戦前三ヵ月ばかり先生の講義を聞いたが、どちらかといえば戦後派である。昭和21年2月に除隊になるやいなや、何よりも先生の講義を楽しみにして大学院に戻った。先生に教わった学生は五、六人あり、皆私と同様に戦争中軍人として日本語をやって来た者で、四年間も学校を離れたので学問に対して非常な憧れを感じていた。先生に余分の講義をねだって、先生にはしまいに日本古典文学の授業だけで毎日2時間以上教えていた。『源氏物語』の須磨、明石の巻、『つれづれ草』、『枕草子』、謡曲の『松風』や『卒塔婆小町』、『好色五人女』、『奥の細道』等々を三ヵ学期で読み終えた。外国で僅かの間にそんなに日本古典文学を読むことは多分新記録であったろう。しかも、日本語以外に先生は日本歴史と日本思想史を教えていた。思想史の授業は五時に終ることになっていたが、六時半前に終ることは珍しくて、学生たちは忠実に最後まで聞いていた。・・・」(p143~144)
こんな箇所があります。
「先生はどんな作品について講義をしていても、その文学的価値をみごとに理解させ、私たちはむずかしい古典をたどたどと読みながら文章の美に打たれていた。先生はもう何百回も『つれづれ草』などを読んだことがあろうが、兼好法師の傑作を初めて発見したような熱意と喜楽が溢れる声で文章のうまさを伝えた。・・」(p146)
こうして引用すると、つぎにキーンさんの「日本文学のなかへ」(文芸春秋社)もつづけて引用したくなります。
「・・・角田先生に対するあたたかい気持も、宣長の偉大な思想も、日本文学そのものの美しさから私が受けた感動には、くらぶべくもなかった。とくに『徒然草』は、私の目を日本の伝統に向かって開いた。
あだし野の露きゆる時なく、
鳥部山の烟立(けぶりたち)さらでのみ住はつる習ひならば、
いかに、もののあはれもなからん。
世はさだめなきこそ、いみじけれ。
第七段のこの一節を、私は感動のあまり、日本語の全然わからない友人に読み聞かせた。
・・・・・・・・
『さだめなきこそ、いみじけれ』という美意識を、人は日本以外のどこに求めうるだろうか。それは、西欧文化の底を流れる古代ギリシャの思想を、真向から否定したもの、そして真に日本的なるもの、である。・・・
私は学部にいたころ、しきりにギリシャ悲劇を読んだが、『徒然草』とは逆の考えかたが、いたるところに出てくるのである。ものは、なるべく消えないのがいい、年古りないように、というのがギリシャの理想だった。『いみじき』にはいろんな意味があるが、兼好法師はここでは明らかに、いい意味に使っている。」(p73~74)
ここから、ドナルド・キーン著「古典の愉しみ」(宝島社文庫)の最初へとつなげて行っても楽しいのでした。
その第一章「日本の美学」はこうはじまっておりました。
「僅か数ページで日本の美学の全貌を説明しつくし、数百年にわたって育てられてきた日本人の美意識について語るのは難しい。日本文化の中核になっている日本人の美意識を抜きにして日本文化の特徴を語るのはさらに困難なことである。私は日本人の特質を一冊の書物『徒然草』に関連して書いてみようと思う。・・・」
ところで、簡単に徒然草を語っている人たちの何冊かを覗いてみたのですが、
小林秀雄から、徒然草に興味をもったという人はいるのですけれども、
どなたも、ドナルド・キーンに言及しておられる方がいませんでした。
もったいないなあ。
これからの徒然草の、水先案内には、ドナルド・キーンさんが
欠かせないように私は思ったわけです。
さて、谷沢永一氏の新刊に、ドナルド・キーンさんの名前が出てくるかどうか?
そんなことを、チェックするのも私は楽しみにしております。