産経新聞1月1日の一面に「年頭の主張」という文が掲載されておりました。
渡辺京二著「逝(ゆ)きし世の面影」から、8日にニューヨークの国連本部で映画「めぐみ――引き裂かれた家族の30年」が特別上映されることにつなげ、平成14年10月の皇后陛下の言葉「何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません」を引用したりしながら、最後には「その上で、この1年をもう一度『世界で一等可愛い子供』(「逝きし世の面影」から引用)たちの笑い声がはじけるような日本にしたい。」としめくくっておりました。
よい文だなあ。と思っておりましたところ3日の産経一面に「平成十九年はしがき」という文が掲載されているのでした。鳥居洋介(「総合編集部部長(大阪)」)と名前入りです。その文もよかった。
あまりにもいいので、これも紹介して、記録しておきたくなります。
はじまりは「昨年暮れ、居酒屋で『平成18年 最も印象に残ったシーン』を選ぶちょっとしたお遊びをやっていた。」と書き出されております。そこで鳥居さんはサッカーW杯ドイツ大会で、敗退した中田英寿選手(29)が10分近く、ユニホームで顔を隠し、芝生に寝ころんでいたシーンをまずあげて書き始めているのでした。そこから小学校の校庭に芝生を敷き詰める事業に芝生の連想がつながって書かれてゆくのでした。
「屋麻戸(やまと)浩教頭(46)が楽しそうに落し物を集めていた。『困ったもんですよ。ジャンパーにセーター、芝生にしてから、脱ぎっぱなしで遊びまわるもんだから』芝生を敷いたことで、全校生徒297人の大半が休み時間に校庭で遊ぶようになったという。何より教室にこもりがちだった女の子たちが、男の子と一緒にボールをけり、鬼ごっこに興じ、そこに低学年も入っていく。『けんかが増えましたね。・・そこで小競り合いが起きるのだけど、いつの間にかみんなで遊んでいる。陰湿ないじめは論外だけど、明るいけんかは子供には必要だと教えられました』」
一面コラムの3倍はある文なので大胆に端折りますが、芝生から「青々とした」坊主頭へとつながるのには、思わず微笑んでしまいました。それはこういう例を紹介していたからです。
「少し話は変わるが、昨年、大阪市内のある小学6年のクラスで、仲間の障害女児へのいじめが発生した。数人の男児が『A子さんだけ優遇されて、逆差別や』と騒ぎだし、女児が登校を嫌がったことで発覚。緊急集会で息子のいじめを知った加害者の父親は、家に帰るなり『そんな子供に育てた覚えはない』と、男児の頭をバリカンで刈り上げたそうだ。『翌朝には、青々とした坊主頭が3つも』。加害児童も被害女児も教え子だった幼稚園の教諭は目尻に涙をため、うれしそうに教えてくれた。・・・・」
魅力ある鳥居洋介氏の文なので、
ここから、私も連想のつなげたくなります。
大岡信著「瑞穂(みずほ)の国うた」(世界文化社)に「芝生の上の木漏れ日」と題した文が掲載せれておりました。それは平成12年1月号~12月号まで「俳句研究」に連載された文章だったのでした。1月~12月をそのままに題名としてありました。
その最初「一月 ―― 齢(とし)を重ねる」は、
最初の出だしが
「『お正月』ということばは現代でも生きていますが、お正月とはどういうものか、どういう感じかを、いまの子供たちはほとんど知らないのではないでしょうか。・・その理由を考えてみますと、一つには年齢の数え方が変わってしまったからです。私はもうすぐ七十代になりますので、私の子供のころといえば、六十年以上も昔のことになりますが、そのころの子供にとって、お正月が来るということは同時に、【歳をとる】ということでした。」こうして満年齢が昭和25年(1950年)に施行されたことを語ります。
連載ですから二月三月四月・・と続きます。
そして最後は「十二月――人生の黄金時間」という文になります。
そこにまた歳のことが出てきます。
「このごろの歳暮や新年の変化は大きいと思います。その一つは、この連載のはじめでも言いましたが、『数え歳(どし)』というものがなくなったことです。それが大きいですね。・・振り返って自分自身を見つめ直したとき、お歳暮も新年もない、という人が多いのは、いきすぎではないでしょうか。・・・お歳暮や年始というものを改まった気持で迎える。そのために何らかの意味で決心をする。そういうことのある人は、歳をとったという感じがきちんとあって、それがやがて、うまく歳をとるのは難しいなという感じにもなるだろうし、あるいは『オレも歳のとり方が昔よりはうまくなってきた』などと思ったりすることにつながるでしょう。・・・」
ところで、どうしてこの題名を「芝生の上の木漏れ日」としたのか?
それについても最後に説明がありました。
まあ、それはなぞのままにしておきましょう。
答えだけを聞かされても、つまらないことが多いこの頃です。
あるいは、それは芝生で遊ぶ子供が教えてくれるのかもしれません。
渡辺京二著「逝(ゆ)きし世の面影」から、8日にニューヨークの国連本部で映画「めぐみ――引き裂かれた家族の30年」が特別上映されることにつなげ、平成14年10月の皇后陛下の言葉「何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません」を引用したりしながら、最後には「その上で、この1年をもう一度『世界で一等可愛い子供』(「逝きし世の面影」から引用)たちの笑い声がはじけるような日本にしたい。」としめくくっておりました。
よい文だなあ。と思っておりましたところ3日の産経一面に「平成十九年はしがき」という文が掲載されているのでした。鳥居洋介(「総合編集部部長(大阪)」)と名前入りです。その文もよかった。
あまりにもいいので、これも紹介して、記録しておきたくなります。
はじまりは「昨年暮れ、居酒屋で『平成18年 最も印象に残ったシーン』を選ぶちょっとしたお遊びをやっていた。」と書き出されております。そこで鳥居さんはサッカーW杯ドイツ大会で、敗退した中田英寿選手(29)が10分近く、ユニホームで顔を隠し、芝生に寝ころんでいたシーンをまずあげて書き始めているのでした。そこから小学校の校庭に芝生を敷き詰める事業に芝生の連想がつながって書かれてゆくのでした。
「屋麻戸(やまと)浩教頭(46)が楽しそうに落し物を集めていた。『困ったもんですよ。ジャンパーにセーター、芝生にしてから、脱ぎっぱなしで遊びまわるもんだから』芝生を敷いたことで、全校生徒297人の大半が休み時間に校庭で遊ぶようになったという。何より教室にこもりがちだった女の子たちが、男の子と一緒にボールをけり、鬼ごっこに興じ、そこに低学年も入っていく。『けんかが増えましたね。・・そこで小競り合いが起きるのだけど、いつの間にかみんなで遊んでいる。陰湿ないじめは論外だけど、明るいけんかは子供には必要だと教えられました』」
一面コラムの3倍はある文なので大胆に端折りますが、芝生から「青々とした」坊主頭へとつながるのには、思わず微笑んでしまいました。それはこういう例を紹介していたからです。
「少し話は変わるが、昨年、大阪市内のある小学6年のクラスで、仲間の障害女児へのいじめが発生した。数人の男児が『A子さんだけ優遇されて、逆差別や』と騒ぎだし、女児が登校を嫌がったことで発覚。緊急集会で息子のいじめを知った加害者の父親は、家に帰るなり『そんな子供に育てた覚えはない』と、男児の頭をバリカンで刈り上げたそうだ。『翌朝には、青々とした坊主頭が3つも』。加害児童も被害女児も教え子だった幼稚園の教諭は目尻に涙をため、うれしそうに教えてくれた。・・・・」
魅力ある鳥居洋介氏の文なので、
ここから、私も連想のつなげたくなります。
大岡信著「瑞穂(みずほ)の国うた」(世界文化社)に「芝生の上の木漏れ日」と題した文が掲載せれておりました。それは平成12年1月号~12月号まで「俳句研究」に連載された文章だったのでした。1月~12月をそのままに題名としてありました。
その最初「一月 ―― 齢(とし)を重ねる」は、
最初の出だしが
「『お正月』ということばは現代でも生きていますが、お正月とはどういうものか、どういう感じかを、いまの子供たちはほとんど知らないのではないでしょうか。・・その理由を考えてみますと、一つには年齢の数え方が変わってしまったからです。私はもうすぐ七十代になりますので、私の子供のころといえば、六十年以上も昔のことになりますが、そのころの子供にとって、お正月が来るということは同時に、【歳をとる】ということでした。」こうして満年齢が昭和25年(1950年)に施行されたことを語ります。
連載ですから二月三月四月・・と続きます。
そして最後は「十二月――人生の黄金時間」という文になります。
そこにまた歳のことが出てきます。
「このごろの歳暮や新年の変化は大きいと思います。その一つは、この連載のはじめでも言いましたが、『数え歳(どし)』というものがなくなったことです。それが大きいですね。・・振り返って自分自身を見つめ直したとき、お歳暮も新年もない、という人が多いのは、いきすぎではないでしょうか。・・・お歳暮や年始というものを改まった気持で迎える。そのために何らかの意味で決心をする。そういうことのある人は、歳をとったという感じがきちんとあって、それがやがて、うまく歳をとるのは難しいなという感じにもなるだろうし、あるいは『オレも歳のとり方が昔よりはうまくなってきた』などと思ったりすることにつながるでしょう。・・・」
ところで、どうしてこの題名を「芝生の上の木漏れ日」としたのか?
それについても最後に説明がありました。
まあ、それはなぞのままにしておきましょう。
答えだけを聞かされても、つまらないことが多いこの頃です。
あるいは、それは芝生で遊ぶ子供が教えてくれるのかもしれません。