和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

開高・邂逅。

2007-01-24 | Weblog
自分の蔵書と図書館本。
最近、新聞での記事による図書館本が気になりました。

読売新聞の2007年1月14日。世論調査部の岩浅憲史さんの署名記事。
「来信返信反響を追う」というコーナーの題は「傷つく図書館の本」。
そこには、こうありました。

「最近、図書館の本の扱いの悪化を指摘する投書が目立つ。『気流』欄には、過去5年に約15通掲載された。書き込みのほか、切り取りや食べ物などによる汚れ、盗難といった被害の実態がつづられている。日本図書館協会によると、公共図書館は毎年50~100館のペースで増加しており、2005年度には約3000館になった。利用者も増え、図書館の被害が目立つようになったという。被害にあった図書館を訪ねた。約27万冊の蔵書がある、東京都中央区立京橋図書館では、最近、中国関連の一般書に青や黄の蛍光ペンで線が何十㌻と引かれた。また、写真雑誌の特集ページが約20㌻にわたって切り取られ、買い替えを迫られた。・・・渋谷区立中央図書館では、図書に磁気テープをはり、貸し出し手続きをしないと警報が鳴る盗難防止ゲートを2000年11月に導入した。盗難被害は目に見えて減ったが、逆に切り取りなどが増えたという。・・・」


これを読んでいたら、私は谷沢永一著「回想 開高健」を思い浮べました。
そこでは本を仲立ちとしながら、谷沢さんが開高との邂逅を語る箇所があるのでした。

「このとき、もし開高があらわれなければ、私は軽薄で空虚な理窟屋に終り、だが、それはまたそれで、結構、安穏にすごしえたかも知れない。世には、実体や事象とかかわりをもたず、観念の築城術にはげむ個性も、また、すくなくないからである。その心地よい自己陶酔が、うまく最後までつづいてくれたら、幸運にも一路平安となるだろう。しかし、もし行程のなかばにして、論理が空洞であると気がついたら、つまり、憑きものが落ちて覚醒したら、とりかえしのつかぬ破目になる。あらためて出直すには、もはやおそすぎる。・・私も多分そうなっていただろう。もし開高があらわれなければ、である。思えばあやういところであった。・・私が、ともすればカラをかぶった言葉にたよるのとは逆に、開高の身上は剥き身の語彙である。さわやかなぬくもりにひたりながら、今まで知らなかった異質の次元へ、抵抗なくひきこまれる思いであった。」

ついつい、余分な引用からはじめてしまいました。
引用したかったのは、ここからです。

「この時期、開高の日常にかわりはなかった。アルバイトは定着して順調、わが鳩小屋への定期便がつづく。あたらしい小道具として、唐草模様の一反(いったん)風呂敷が登場した。それに包めるだけの分を、書棚からあれこれと取りだして、大黒さまのようにかついで帰る。そのほどんどが次回には、きっちり戻ってくるのである。彼は几帳面であったから、手もとにながくはとどめない。回転のはやいこと無類であった。私は原則として本を貸さない。たまには別枠を設けたが、厄介なことに本というものは、なかなか返ってこないのである。開高は例外中の例外であった。
また開高は本をいためなかった。ただし、いったん人が手にした以上、本のどこかにはかならず疲れがでる。しかし、避けることのできないその一面をのぞくなら、開高が本をあつかう手つきは、慎重そのものであったろう。とは言うもののその自制は、じつは開高の本性ではなかった。もともと彼の見るところ、書物はたんなる道具である。咀嚼すべき栄養物である。用がすめば滅すべし。はじめから性根がすわっていた。したがって彼は特別に、やむをえず無理していたのである。私には愚劣な蒐書癖があり、その執着が場合によっては、物神崇拝にかたむいたかもしれない。その間の気配を見てとって、彼は私に呼吸をあわせたのである。
しかし、それよりもなによりも、私は開高に本を貸すこと、そのことに深い喜びを味わっていた。持ちかえった本をかえしにくる、そのときの会話が生む心おどりは、私にとって空前の体験であった。・・彼はもとより自然体、ただただ内から発するまま、・・魂にひびいた実感を、おさえがたく朗誦したにすぎない。それが幼稚な理論だおれの私には、新鮮そのもの、痛棒そのもの、痛いけれど快い衝撃だった。彼に照らしてふりかえり、私は我が身の垢をさとって、それを除きさるべくつとめた。私は蘇生をうながされていたのである。」

それが昭和25年前後の「全国いずれにでも、小さな古本屋がまだがんばっていた」時期のことでした。

つぎに二人の絶交がひかえております。そこにも本がありました。

「ある夜、彼がかえったあと、返してきた本を書棚にもどそうとして、私は思わず眉をひそめた。B6判の頁のなかほどから、頭髪がそこここにはみだしているのである。今まで一度たりともなかった事例である。びっくりした私には、むしろ不審でさえあった。けれども局面はさらにすすむ。そのつぎ、またそのつぎ、本にはさまれている毛髪の、その量がしだいにふえてゆく。それもひとところにかたまってではなく、かさねて何箇所もに散らばっている。とても偶然とは思えない。・・栞みたいにおかれている。頭垢(ふけ)はどこにも見あたらない。たまたま抜けおちたのではなく、集めてはさみこんだのである。たくらんでつとめた所作なのである。
考えるまでもなく意味はよみとれた。出典は小林秀雄の回想記である。どこまで本当か眉唾ものであるが、彼は本を読みすすみながら、頭をかきむしる癖があるので、頁の間に頭垢と毛髪がはさみこまれるから、返しにいったフランス語の原書を、辰野隆はすぐ窓ぎわへもってゆき、払いおとすのが常であったという。開高は頭垢だけを引き算して、小林を演じているのである。私はまだ若すぎたから、彼の稚気に興ずるいとまなく、背のびした倨傲というふうに受けとり、いやな匂いをかがされる思いであった。・・・それにしても不愉快であった。気持の整理がつかなかった。・・私は、開高の稚気を、おもしろがってやるべきであった。伝えられている辰野のように、ああ、読んできたか、と虚心に受けとめ、本のなかみについてだけ、話そうとつとめればよかったのである。頭髪がはいっているだけで、本はよごれていなかった。彼は本をていねいにとりあつかい、ただ毛髪をはさみこむだけの、悪戯をこころみたにすぎない。・・・しかし私も疲弊していた。かなり神経をいためていた。・・そのときは自覚しなかったが、鬱症が私をおそっていた。・・・」

そして、谷沢さんは、どうしたか。

「昭和26年12月の暮れ、私は開高にみじかい手紙を書いた。
当分、君と絶交する。顔をあわせる機会があっても、話しかけたりしないで欲しい。ただし我が書斎の蔵書については、今後とも自由に利用せよ。専用の貸しだし簿をそなえておくから、記帳して好きなように持ちかえれ。『文学室』にのせる原稿は、今までとおなじく斡旋するから、机のうえにおいておけ。それやこれやのとき対面しても、無言で勝手に出入りせよ。・・・」


今回は、「それよりもなによりも」という谷沢永一と開高健と本でした。
コメント (3)
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