谷亮子さんが銅メダル。お疲れさまでした。
ところで、柔道といえば、嘉納治五郎。
齋藤孝著「代表的日本人」(ちくま新書)をひらくと、五人の日本人が紹介されておりました。
与謝野晶子の女性力
嘉納治五郎の武道力
佐藤紅緑の少年力
斎藤秀三郎・秀雄の翻訳力
岡田虎二郎の静坐力
どなたも、少年少女の偉人伝には出てこない意外な人選です。
(ちなみに、先に出た齋藤孝著「日本を教育した人々」(ちくま新書)では、
よく御存知の四人が登場してます。吉田松陰・福沢諭吉・夏目漱石・司馬遼太郎)
その中で、私が興味を持ったのは嘉納治五郎でした。
齋藤孝はこう書いております。
「さまざまな方法を追求し、伝統的な価値観を世界標準につくり直した根本精神や根本原理を、日本人の中に心の財産として引き継がせようとしました。私にとっては、治五郎は理想の教育者であると同時に、私自身のめざす人物像でもあります。私としては『心の師』として仰いでいるこの人物の生涯がもっと多くの人に知られ、ロールモデルとなってほしいと思っています。」(p88)
そういえば、嘉納治五郎なら、ひょんなところで登場しておりました。
それが、勝海舟の「氷川清話」。
舞台は本屋でした。
「若い時分のおれ(海舟)は非常に貧乏で、書物を買う金がなかったから、日本橋と江戸橋との間で、ちょうど今、三菱の倉がある所へ、嘉七という男が小さい書物商を開いていたので、そこへおれはたびたび行って、店先に立ちながら、並べてある色々の書物を読むことにしておった。すると向こうでもおれが貧乏で書物が買えないのだということを察して、いろいろ親切にいってくれた。」
その嘉七の紹介で、同じ店に来る北海道の商人・渋田利右衛門と親しくなります。渋田も大の本好き。
「おれもこの男の知遇にはほとほと感激して、いつかはこれに報ゆるだけのことはしようと思っていたのに、惜しいことには、渋田はおれが長崎にいる間に死んでしまった。こんな残念なことは生れてからまだなかったよ。長崎へ行く前、渋田と別れるときに渋田は、『万一、私が死んであなたの頼りになる人がなくなっては』といって、二、三人の人を紹介してくれたが、その一人は嘉納治右衛門、これは治五郎(柔道・講道館の開祖)の親に当たるので、灘の酒屋をしていたのだ。後におれが神戸へいったときには、機械の類はみんなこの人に買ってもらったのだ。・・・」
このように「氷川清話」の最初の方に出てきます。
齋藤孝著「代表的日本人」を読んでいたら、ちょっと勝海舟のその後が語られているのでした。こうあります。
「嘉納治五郎は勝海舟にも相談しています。勝海舟と嘉納治五郎の親が知り合いだったことから、治五郎はある時、自分の将来について勝のもとへ相談に行ったのです。そのころ、治五郎は学問の道に進むかどうか迷っていました。それに対して勝海舟は、『学問のための学問になってしまうのはよくない。実地のなかで、学問するようにしなさい』とアドバイスしています。勝海舟は講道館の道場開きにもやって来るのですが、あまりに見事な道場なのに感動して、揮毫(きごう)しています。『無心而入自然之妙、無為而窮変化之神』すなわち『武術の極意は心技体を究めることにある』という意味です。いつも実践体験に即した学問をせよというこの言葉は、自分が行動するうえでの大切な指針となったと、治五郎はのちに振り返っています。明治という時代は、人的なつながりがとても密接です。治五郎と漱石がつながり、治五郎と勝海舟がつながり、間接的には治五郎と吉田松陰もつながっている。・・・・」(p90)
まあ。というわけで嘉納治五郎を少し読んでみたくなりました。
うん。北京五輪の柔道も目が離せないのですが。
そう。それはそれとして、柔道を観戦しながら、
同時進行で読む贅沢。
ところで、柔道といえば、嘉納治五郎。
齋藤孝著「代表的日本人」(ちくま新書)をひらくと、五人の日本人が紹介されておりました。
与謝野晶子の女性力
嘉納治五郎の武道力
佐藤紅緑の少年力
斎藤秀三郎・秀雄の翻訳力
岡田虎二郎の静坐力
どなたも、少年少女の偉人伝には出てこない意外な人選です。
(ちなみに、先に出た齋藤孝著「日本を教育した人々」(ちくま新書)では、
よく御存知の四人が登場してます。吉田松陰・福沢諭吉・夏目漱石・司馬遼太郎)
その中で、私が興味を持ったのは嘉納治五郎でした。
齋藤孝はこう書いております。
「さまざまな方法を追求し、伝統的な価値観を世界標準につくり直した根本精神や根本原理を、日本人の中に心の財産として引き継がせようとしました。私にとっては、治五郎は理想の教育者であると同時に、私自身のめざす人物像でもあります。私としては『心の師』として仰いでいるこの人物の生涯がもっと多くの人に知られ、ロールモデルとなってほしいと思っています。」(p88)
そういえば、嘉納治五郎なら、ひょんなところで登場しておりました。
それが、勝海舟の「氷川清話」。
舞台は本屋でした。
「若い時分のおれ(海舟)は非常に貧乏で、書物を買う金がなかったから、日本橋と江戸橋との間で、ちょうど今、三菱の倉がある所へ、嘉七という男が小さい書物商を開いていたので、そこへおれはたびたび行って、店先に立ちながら、並べてある色々の書物を読むことにしておった。すると向こうでもおれが貧乏で書物が買えないのだということを察して、いろいろ親切にいってくれた。」
その嘉七の紹介で、同じ店に来る北海道の商人・渋田利右衛門と親しくなります。渋田も大の本好き。
「おれもこの男の知遇にはほとほと感激して、いつかはこれに報ゆるだけのことはしようと思っていたのに、惜しいことには、渋田はおれが長崎にいる間に死んでしまった。こんな残念なことは生れてからまだなかったよ。長崎へ行く前、渋田と別れるときに渋田は、『万一、私が死んであなたの頼りになる人がなくなっては』といって、二、三人の人を紹介してくれたが、その一人は嘉納治右衛門、これは治五郎(柔道・講道館の開祖)の親に当たるので、灘の酒屋をしていたのだ。後におれが神戸へいったときには、機械の類はみんなこの人に買ってもらったのだ。・・・」
このように「氷川清話」の最初の方に出てきます。
齋藤孝著「代表的日本人」を読んでいたら、ちょっと勝海舟のその後が語られているのでした。こうあります。
「嘉納治五郎は勝海舟にも相談しています。勝海舟と嘉納治五郎の親が知り合いだったことから、治五郎はある時、自分の将来について勝のもとへ相談に行ったのです。そのころ、治五郎は学問の道に進むかどうか迷っていました。それに対して勝海舟は、『学問のための学問になってしまうのはよくない。実地のなかで、学問するようにしなさい』とアドバイスしています。勝海舟は講道館の道場開きにもやって来るのですが、あまりに見事な道場なのに感動して、揮毫(きごう)しています。『無心而入自然之妙、無為而窮変化之神』すなわち『武術の極意は心技体を究めることにある』という意味です。いつも実践体験に即した学問をせよというこの言葉は、自分が行動するうえでの大切な指針となったと、治五郎はのちに振り返っています。明治という時代は、人的なつながりがとても密接です。治五郎と漱石がつながり、治五郎と勝海舟がつながり、間接的には治五郎と吉田松陰もつながっている。・・・・」(p90)
まあ。というわけで嘉納治五郎を少し読んでみたくなりました。
うん。北京五輪の柔道も目が離せないのですが。
そう。それはそれとして、柔道を観戦しながら、
同時進行で読む贅沢。