和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

読書名人伝。

2008-08-23 | Weblog
雑誌「ノーサイド」1995年5月号の特集「読書名人伝」。
数人の方が手分けして各読書名人の人となりを、半ページ~2ページの分量で紹介しております。なかに、名人を一人だけ紹介している方がおられるので、それだけでも、ここに引用しておきましょう。そうしましょう。

   幸田露伴 を 井波律子
   森銑三  を 谷沢永一
   内藤湖南vs津田左右吉 を 高島俊男
   清水幾太郎 を  狐

と、私が気になった名前はそれでした。
すこし紹介。高島俊男氏は比較してこう書いております。

「湖南はB29絨毯爆撃方式である。和漢のありとあらゆる書物を、沈着に、重厚に、かつ組織的網羅的に読んでゆき、それがすべて、鋼鉄のごとく強靭でコンピューターのごとく精密な頭脳にインプットされる。津田左右吉は気まぐれ原始人方式である。今日ちょっとゲーテを原書で読みかけたと思ったら、つぎの日は賀茂真淵にとりかかっている。そのつぎの日は何が何でもフランス革命の研究だと意気ごみ、またつぎの日は史記精読の志をおこす。支離滅裂である。気まぐれ原始人が、木にのぼって木の実を一つ二つかじったとたんに魚が食べたくなって海へとびこみ、底へもぐって一匹つかまえたかつかまえぬうちに、いややっぱり兎の肉にかぎると山へ駆けこんで兎を追っかけ、走っている途中でハマグリが食いたくなってまた海へはせもどり・・・といった恒常的逆上状態。それも読むはしからみんな忘れてしまう。しかしだからと言ってそれが無駄とは言えず、そうした読書をつうじて、世の中の誰にも似ないまったく自分独自の思想が形成されてきたのだ、と後年の津田はいばっている。どちらもスーパークラスの学者になり大業績をのこしたのだから、つまり読書法というのはこれがいいときまった方式はないので、絨毯爆撃もよし気まぐれ原始人もまたよし、それぞれ性格にあった読みかたが一番、ということらしい。」

こう引用すると、もう一箇所。
森銑三を紹介する谷沢永一の文の最後の方にこうありました。

「独壇場である人物研究と一味違う読書随筆として私は『書物』(柴田宵曲と共著)及び『読書日記』を他に例を見ない逸品として懐しむ。後者に脈々と流れる官学批判は当時これだけ見事に学閥の生態を衝いた証言が他に見当たらないという意味でも天晴れである。その態度を剛毅にして清潔、些かも物欲しげな湿気がない。世にはこの爽快な文章を『グチ』(柳田守『森銑三』)と読みとる感覚もあるらしく、人の立場と神経はまことに多種多様であるなあと感じ入る。」


まあ、そういうわけで、『書物』の読後感が爽やかだったのを思い出したので、森銑三著『読書日記』を古本屋へと注文したのでした。
コメント
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