和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

俳諧評釈口述。

2009-06-04 | 幸田文
幸田文という入口から、いろいろな、繋がりの広がりを思い浮かべるのでした。
たとえば、俳諧。
たしか、松尾芭蕉は、おくの細道のはじまりに、深川から千住へと行くところからはじまっていました。幸田露伴の向島をすぐに思い浮かべます。

ちょっと話をかえて、
幸田文対話に、関口隆克氏との「おさななじみ」という対談が載っております。
それは、何と、幸田文の向島時代を知っている方が、二人で思い出を語っているものでした。まさか、こんな話を聞けるなんて。というのがでてくるのでした。

【関口】・・雷門のところで電車をおりて、吾妻橋で一銭蒸汽に乗ろうとしたら、あの舟板っていうのか、板があって、あれを渡ろうとしたときですよ、落ちた、落ちたって・・・・。
【幸田】あれ、あたくしよ。

それから、その時の様子が話されているのでした。
まあ、それはそれとして、
幸田露伴と幸田文と芭蕉との接点。
ということで、幸田文対話から、ひろってみます。


【幸田】私のところはね、何回も何回も新陳代謝しているものですから。貧乏になると売りますんで(笑)。もっとも大きかったのは大水が出たとき棚がひっくりかえって、書物が水びたしになりました。その時、父がいいました、『おれはもう頼らない、これからは腹の中に書いちゃうから」って。私、子供心に覚えておりますけれど、その濡れた本を、丁寧に一枚一枚、象牙のヘラではがしたものです。唐紙ですから破れやすいし、どっちの字か判らなくなりますしね、しかも早くしないとカビが出ますし、あれは大変な仕事でした。それから貧乏で売りますし、引越しの度に少くなりますし。この戦争の時には、自分の着るものや寝るものを疎開して父の本を焼いたといわれたのでは、ひとりっ子ですから相すまぬと思いましてね、一部をトラックで埼玉県に疎開しました。その時、父がしみじみしまして、あの残ったものが、・・・

【山縣】それは残っておりますか。
【幸田】はい。その時、父がしていたのは俳諧の仕事、評釈でしたが、その関係のものだけは、身のまわりにおき残しました。ですからこの関係のものは焼けました。
・・・・
【幸田】古い俳諧の注釈をすることは、書物がどっさり要ることです。俳諧ですから、生活百般にわたりますから、ずい分材料が要るわけです。人に物を調べさせるわけですが、あんな難しいことはありませんね。ちょっと知識が足らないと手が届かないんでございます。そのちょっと手が届かないところがくやしいのです。ですから寝ておりましてね、なぜお前はそこを一歩突っ込まないって怒っているんでざんすよ。しかもこの助手は人様の息子さんでしょ。・・・・
父が仰向けに寝ている、いっぱいにむくみながら文語体の口述をする。私もやりましたが、寝ながら文語体の口述というのは大変でざんすね。これを仰向けになったままするんです。そうしてこれで治定したから、これを明日清書して、もう一回読んで、文章の悪いところをなおして、これで決定だとなりますと、私も、私の娘も当時十六だったんですが、涙がこぼれましたね。一生懸命仕事しているのは男でございましょ。男の世界ですよ。感情はそこにないんですから。だけど襖一重のこっちでは女二人が感情がいぱいになってきているんでざんすよ。そこに空襲でございましょ。父も年とっておりましたし・・・・。

【幸田】あれをやるのを傍らで手伝いながら、感情を動かしながら聞いていたことが、やっぱり、こうして雑文を書くようになってから、大変為になったと思っています。何しろ季節が非常にあるものでございますから、それにたいする厳しい批判がある、おもしろうございました。しかしこうして何か書くようになるなら、もと一生懸命に聞いておけばよかったと思うのですけれど。


                      番茶清談(山縣勝見)

この対談もまだまだ面白い。それに、
他の人との対談でも、この場面の回想が出てきます。
もうすこし列挙してゆくと面白いのでしょうが、これくらいで。
コメント
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