和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

名残(なごり)。

2009-06-06 | 幸田文
幸田文晩年の作品に「木」「崩れ」があります。
たとえば、松山巌氏は、こう書きはじめておりました。

「瑞々しい眼、若々しい意欲。いかにも常套的な惹句だが、こう記せずにはいられない。幸田文が亡くなって早二年が経とうとしている。生前に発表しながらも、自身ではどこか不満があって、単行本としなかった文章が相次いで刊行された。『崩れ』と『木』である。・・・」(「手の孤独、手の力」中央公論新社。p99)

また、松村友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)の最後の方には、こんな箇所もありました。

「・・・『崩れ』は、生前には上梓を見なかったが、この作品が陽の目を見て本当によかったと思う。それは、『崩れ』という作品こそ、幸田文が作家として残した、幸田文自身への真の意味での鎮魂歌だと思うからである。」(p261)


どうして、これが単行本として生前に出版されなかったのか?
まずは、そんな疑問を素人は安易にも思うわけです。
そういえば、と思い浮かぶのは、
「おくのほそ道」についてでした。
芭蕉は、「おくのほそ道」を、どうしたか?

「元禄七年四月のことでした。清書にかかったであろう時間を考え合わせますと、おそらく元禄六年の冬か七年の春の早いころではなかったでしょうか。こうしてできあがった素竜本は、芭蕉みずから題簽(だいせん)をしたためた上、その年五月の芭蕉の最後の旅の際、その頭陀袋(ずだぶくろ)の中に入れられて・・郷里伊賀の実兄松尾半左衛門に贈られました。何回かの推敲の果てに、やっと完成した作品を、出版しようと計画するでもなく、また他の門人たちに見せたりもせずに、別に文人というわけでもない兄に贈った芭蕉の胸中は、今日の常識からはちょっと理解しがたいところですが、この年正月、郷里の門人意専(いせん)に宛てた書簡の中でも、『利の名残も近づき候にや』と漏らしていたように、あるいは芭蕉はすでに死のそれほど遠くないことを予感するとともに、この作品をひそかに自分の生涯の総決算と考え、死後の形見とするつもりだったのではなかったでしょうか。」

こう語るのは、尾形仂氏(「芭蕉の世界」講談社学術文庫 p252)
尾形氏は、こう語ったあとに、
郷里伊賀の門人土芳(どほう)の書いた『三冊子(さんぞうし)』を引用しておりました。その箇所も孫引きしてみましょう。


「ある年の旅行、道の記すこし書けるよし、物語りあり。
 これを乞ひて見むとすれば、
 師いはく、さのみ見るところなし。
 死してのち見はべらば、これとてもまたあはれにて、
 見るところあるべし、となり。
 感心なることばなり、見ざれどもあはれ深し。」


これを引用したあとに、尾形氏は語ります。


「とありますのは、この紀行文をさしての問答ではなかったか、と思われないではありません。兄に贈られた素竜本が、門人去来の手によって京都の井筒屋庄兵衛方から出版されたのは、芭蕉が亡くなってから八年を経た、元禄十五年のことでした。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする