草剛君の「全裸で逮捕」という件。
地デジのコマーシャルで、代表してるような顔を、
テレビに出していた草君でした。
ちょっと、他の件で、あらためて開いた
養老孟司著「死の壁」(新潮新書)に、こんな箇所がありました。
「同様に戦後消えていったものはたくさんあります。
お母さんが電車の中でお乳を子供に与える姿も見なくなって久しいように思います。肉体労働がフンドシ一丁で働かなくなったのはもっと前からのような気がします。かつては防空壕でも何でも夏の暑い時にはフンドシ一丁で穴を掘っていた。ところが今ではどんなに暑くても皆、ヘルメットと作業服を着ている。ピンクの派手なズボンを穿いている作業員もいる。
このへんのことには皆、共通の感覚があるのがおわかりでしょうか。身体に関することが、どんどん消されていったのです。
これは都市化とともに起こってきたことです。それも暗黙のうちに起こることです。世界中どこでも都市化すると法律で決めたわけでも何でもありません。それででもほぼ似たような状態になります。これは意識が同じ方向性もしくは傾向をもっているからです。
都市であるにもかかわらず、異質な存在だったのが古代ギリシャです。ギリシャ人はアテネというあれだけの都市社会を作っておきながら、裸の場所を残していたのですから。彼らにとっては裸が非常に身近だった。
誰もが知っているのがオリンピックです。これはもともと全裸で行っていた大会です。マラソンだって何だって全裸です。マンガや絵本のようにイチジクの葉なんか付けていません。スポーツに限らず、教育機関、当時のギムナジウム(青少年のための訓練所)でも皆裸でした。もともとギムナジウムという言葉は『裸』を意味していたのです。・・・」(p36~37)
日本の裸といえば、渡辺京二著「逝きし世の面影」(葦書房)の第八章が裸をテーマに取り上げておりました。
すこしそこからも引用。
「明治14年に小田原付近を旅したクロウが描き出すある漁村の夜景は、ほほえましい自然な印象を私たちに与える。『あちこち、自分の家の前に、熱い湯につかったあとですがすがしくさっぱりした父親が、小さい子供をあやしながら立っていて、幸せと満足を絵にしたようである。多くの男や女や子供たちが木の桶で風呂を浴びている。桶は家の後ろや前、そして村の通りにさえあり、大きな桶の中に、時には一家族が、自分たちが滑稽に見えることなどすっかり忘れて、幸せそうに入っている』。」
「ラファージが日光への旅で、ある茶店に休んだとき、『女の馬子たちは腰まで衣服を脱ぎ、男の眼もはがからずに胸や脇の下を拭いたりこすったり』した。・・・ラファージは馬子たちのはがかりのなさにはおどろいたかも知れないが、もともと画家であるから、裸体を怪しからぬものとは考えていなかった。『日本の道徳は着衣の簡単さによって一向損なわれないし、また芸術家からみるなら当然のことだが、法律にはいたって従順にできている民族に流れこんだ新しい観念が、これらの習慣(裸体をことさらに羞じぬ習慣)を変えて行くのは残念なことだ』と彼は述べている。」
ここも引用しておきましょう。
「徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な違いである。もちろん、人間の肉体ことに女性のそれは強力な性的表象でありうる。久米の仙人が川で洗濯している女のふくらはぎを見て天から墜落したという説話をもつ日本人は、もとよりそのことを知っていた。だがそれは一種の笑話であった。そこで強調されているのは罪ではなく、女というものの魅力だった。徳川期の文化は女のからだの魅力を抑圧することはせず、むしろそれを開放した。だからそれは、性的表象としてはかえって威力を失った。混浴と人前での裸体という習俗は、当時の日本人の淫猥さを示す徴しではなく、徳川期の社会がいかに開放的であり親和的であったかということの徴しとして読まれねばならない。アーノルドが『日本人は肉体をいささかも恥じていない』というように、彼らの大らかな身体意識は明治20年代まで、少なくとも庶民の間には保たれていた。・・・」
地デジのコマーシャルで、代表してるような顔を、
テレビに出していた草君でした。
ちょっと、他の件で、あらためて開いた
養老孟司著「死の壁」(新潮新書)に、こんな箇所がありました。
「同様に戦後消えていったものはたくさんあります。
お母さんが電車の中でお乳を子供に与える姿も見なくなって久しいように思います。肉体労働がフンドシ一丁で働かなくなったのはもっと前からのような気がします。かつては防空壕でも何でも夏の暑い時にはフンドシ一丁で穴を掘っていた。ところが今ではどんなに暑くても皆、ヘルメットと作業服を着ている。ピンクの派手なズボンを穿いている作業員もいる。
このへんのことには皆、共通の感覚があるのがおわかりでしょうか。身体に関することが、どんどん消されていったのです。
これは都市化とともに起こってきたことです。それも暗黙のうちに起こることです。世界中どこでも都市化すると法律で決めたわけでも何でもありません。それででもほぼ似たような状態になります。これは意識が同じ方向性もしくは傾向をもっているからです。
都市であるにもかかわらず、異質な存在だったのが古代ギリシャです。ギリシャ人はアテネというあれだけの都市社会を作っておきながら、裸の場所を残していたのですから。彼らにとっては裸が非常に身近だった。
誰もが知っているのがオリンピックです。これはもともと全裸で行っていた大会です。マラソンだって何だって全裸です。マンガや絵本のようにイチジクの葉なんか付けていません。スポーツに限らず、教育機関、当時のギムナジウム(青少年のための訓練所)でも皆裸でした。もともとギムナジウムという言葉は『裸』を意味していたのです。・・・」(p36~37)
日本の裸といえば、渡辺京二著「逝きし世の面影」(葦書房)の第八章が裸をテーマに取り上げておりました。
すこしそこからも引用。
「明治14年に小田原付近を旅したクロウが描き出すある漁村の夜景は、ほほえましい自然な印象を私たちに与える。『あちこち、自分の家の前に、熱い湯につかったあとですがすがしくさっぱりした父親が、小さい子供をあやしながら立っていて、幸せと満足を絵にしたようである。多くの男や女や子供たちが木の桶で風呂を浴びている。桶は家の後ろや前、そして村の通りにさえあり、大きな桶の中に、時には一家族が、自分たちが滑稽に見えることなどすっかり忘れて、幸せそうに入っている』。」
「ラファージが日光への旅で、ある茶店に休んだとき、『女の馬子たちは腰まで衣服を脱ぎ、男の眼もはがからずに胸や脇の下を拭いたりこすったり』した。・・・ラファージは馬子たちのはがかりのなさにはおどろいたかも知れないが、もともと画家であるから、裸体を怪しからぬものとは考えていなかった。『日本の道徳は着衣の簡単さによって一向損なわれないし、また芸術家からみるなら当然のことだが、法律にはいたって従順にできている民族に流れこんだ新しい観念が、これらの習慣(裸体をことさらに羞じぬ習慣)を変えて行くのは残念なことだ』と彼は述べている。」
ここも引用しておきましょう。
「徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何ら罪を見出していなかった。それはキリスト教文化との決定的な違いである。もちろん、人間の肉体ことに女性のそれは強力な性的表象でありうる。久米の仙人が川で洗濯している女のふくらはぎを見て天から墜落したという説話をもつ日本人は、もとよりそのことを知っていた。だがそれは一種の笑話であった。そこで強調されているのは罪ではなく、女というものの魅力だった。徳川期の文化は女のからだの魅力を抑圧することはせず、むしろそれを開放した。だからそれは、性的表象としてはかえって威力を失った。混浴と人前での裸体という習俗は、当時の日本人の淫猥さを示す徴しではなく、徳川期の社会がいかに開放的であり親和的であったかということの徴しとして読まれねばならない。アーノルドが『日本人は肉体をいささかも恥じていない』というように、彼らの大らかな身体意識は明治20年代まで、少なくとも庶民の間には保たれていた。・・・」