和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

永平録を読む。

2018-01-05 | 詩歌
栗田勇著「道元一遍良寛」(春秋社)は
平成25年8月に、古本で280円で買ってありました。

寝かせてあったので、今読み頃をむかえました(笑)。

さてっと、ここに
良寛の漢詩「永平録を読む」を
栗田氏がかみ砕いて訳しております。
「渡辺秀英氏の解釈を私風によんでみよう」(p170)
とあって、はじまります。

「春の夜は更けて、
春雨は雪にまじって庭の竹にふっている。
寂しさを慰めようとしても術(すべ)もなく、
うす暗い棚から手さぐりで『永平録』をとりだした。
香をたき灯をともして、静かにひらいて読めば、
一句一言が、皆、珠玉である。
憶い出すが、昔、玉島で円通寺の老師から
『正法眼蔵』の提唱をさずかったことがある。
そのときすでに深く感動し、
とくに拝読を願って許され、
身みずから実践につとめた。
そのとき、はじめて覚ったのは、
それまでなんと無駄な力を費したことか、
形式や学問ではなかった。
いらい師のもとを辞して、
遠く行脚の旅に出た。
なんという道元禅師との深い縁があったのであろうか。
ゆく先々で、『正法眼蔵』の写本に出逢い、
そのたびに参究を幾度かさねたことだろう。
しかし、しばしば理解が及ばぬ、
そのたびにいろいろな教えを先輩に尋ね、
二たび手にとってはじめてほぼ了解することができた。
ああ、様々な解釈が混じり、
玉石を分かつこともできなくて、
五百年来、観ることなく塵に埋もれたままにしたのは、
宗門の僧が正法をえらぶ眼がなかったからである。
いま滔々たる時流をどうすることができようか。
いまさらに心に悔いても仕方ない。
だが、この夜、灯のまえで涙がとどまらず、
『永平録』をぬらしてしまった。
翌日、隣家の老人が庵にやってきて、
この本がどうして湿っているのかと問いかけるが、
答えようにも言葉もない。
しばらく頭を垂れているうちに言葉が出た。
昨夜の雨もりでぬれたのです、とーー。」
(p170~171)

このあとに栗田氏はこう書いておりました。

「『正法眼蔵』は秘本であって、
五百年来、目にする者は数えるほどしかなく、
いわんや、『眼蔵』をまっ正直にうけとめて
実践する者など決してなかったということを、
良寛は充分に自覚していた。・・・」


それが、現在は講談社学術文庫にも
現代語訳が入っているので、
読もうと思えば、どなたでも手に取ることができる。
ありがたいなあ。
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それ、やめたほうがいいわよ。

2018-01-05 | 短文紹介
眉村卓氏の文庫を注文してあったのが届く。
「僕と妻の1778話」(集英社文庫)。

最初から読もうとしたのですが、数ページでダウン。
そこから癖になっているパラパラ読み。
パラパラでも気に入る箇所がありました。
そこを引用。
「711 繰り返す癖」と題してあります。
そのはじまりと
そのおわりの箇所を引用。

「世の中の、そんな風潮がいかんのだーーとC氏はいった。
つづけて、
『風潮がいかん』
ちょっと間を置いて、
『風潮がいかんのだ』
と、繰り返したのである。
『それ、やめたほうがいいわよ』
夫人が口を開いた。
『何を?』
C氏は夫人を見る。
『その、同じことを繰り返す癖』
夫人は指摘する。
『それは前からそうだったけど、
この頃は三回いうでしょ?
二回でもうるさいと思う人が多いでしょうに、
三回もいったりしたら、あの人、
近頃ボケてきたんじゃないか、
くどくなった、と、嫌がられるんじゃない?』」
(p175~176)

はい。これがはじまり。
では、おわりの方も引用します。

「C氏より少し若い人々との、飲みながらの談議があった。
『全く、今は親が甘過ぎるんだ』
と、C氏はいった。
甘過ぎるんですよ、
甘過ぎる、
といいたくなる衝動をぐっとこらえて、C氏はいう。
『南無阿弥陀仏』
一息おいて、
『南無阿弥陀仏』
『Cさん、本当にこの頃、お称名をよくいうようになりましたね』
ひとりがいった。
『何か、発心でもなさったんですか?』
別の者が問う。
『そういうことでもないんだけどね』
C氏は答えた。
そういうことではない。
そうではない。
とはつづけずに、
『南無阿弥陀仏』
『南無阿弥陀仏』
なのである。
このことについて夫人が
今のところ何もいわないのは、
それ以上に良い言葉はなさそうだ、
と判断しているのかもしれない。
だからC氏は、このままそれで行くつもりであった。
動機が何であろうと、お称名は
お称名なのだ。罰は当たらないはずである。」
(p179~180)

はい。これは私のツボにはまりました。きっと同じ言葉を
繰り返すたびに、この文を、私は思い出すだろうなあ。
コメント (2)
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いわゆる有識者たち。

2018-01-05 | 短文紹介
塩野七生著「ギリシア人の物語 Ⅰ」(新潮社)届く。
発行年をみると、2015年12月20日とあり、
私が新刊で注文したのが、今年に入ってからですから、
まだ、増刷されていなかったようです。

はじまりは「読者への手紙」となっておりました。
そこに引用したくなる箇所がありました。

「最後になったが、ギリシア人を書く気になった
理由の第二について簡単に述べておきたい。
それは、昨今とみに耳にすることが多くなった、
民主主義とは何か、民主政下のリーダーは
どうあるべきか、についての論争が発端になる。
この問題を声高に論ずるのは、政治家とマスメディアと、
メディアに登場すること頻繁ないわゆる有識者たち。
しばらく交き合っていた私もついに拒絶反応を起し、
これについて論ずる新聞も雑誌も読まなくなり、
テレビもチャンネルを変えるようになった。
騒々しく論争しても有効な対案には
少しも結びついていない、と思ったからである。」(p3)


はい。はい。別に若い世代だけが
新聞を読まないわけじゃなく。
塩野七生氏も読まない。

その塩野さんの新刊は、
「メディアに登場すること頻繁ないわゆる有識者たち」
には、読まれていないらしい。
はい。それなら、私は読んでみましょう。
という気になってくるではありませんか(笑)。
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