文庫本を整理してたら、
清川妙著「つらい時、いつも古典に救われた」(ちくま文庫)
が出てくる。早川茉莉編となっております。
うん。いつでも読めると思っていて、
いままで読まずにおりました。
この機会にパラパラとめくってみます。
枕草子・徒然草・万葉集について、章立てで
エッセイがまとめられておりました。
まずは枕草子の章のはじまり
「古典の作者の中で、いちばん友達感覚でつきあえるのは
清少納言である。娘時代に、はじめて彼女に出会ったときから、
私たちは波長が合った。これは私の腹心の友への手紙である。」
(p17)
徒然草の章のはじまりも引用。
「このごろ、思い立って『徒然草』をていねいに読み直している。
兼好法師の頭は非常に合理的で知的、筆は的確で歯切れがいい。
気持がだれたとき、マイナスに傾いたとき、どうしようかと迷ったとき、
そのページをパラパラとめくってみると、探しものをしていた心に、
かならずピタリと寄り添う言葉がみつかる。
たとえば、この一節など、一生を左右しそうな、おそろしいまでの深さ
を持っていると思えてならない。『ある者、子を法師になして』に
はじまる第188段の中のことばだ。
『(前略)行末久しくあらます事ども心にはかけながら、
世をのどかに思ひて、うち怠りつつ、まづ、さしあたりたる
目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、事々なす事なくして、
身は老いぬ。終(つひ)に物の上手にもならず、
思ひしやうに身を持たず、悔ゆれども取り返さるる齢(よはひ)
ならねば、走りて坂をくだる輪のごとくに衰へゆく。』
ーーー将来にわたって、こうしたい、こうなりたいというような
夢を持っていながら、のんびりかまえ、怠って、目の前のことに
紛れて月日を過ごしていると、なにごとも達成できず、
いつか年をとっている。その道のベテランになることもなく、
いい暮らしを立てることもできず、ああ、しまったと思っても、
もはや遅い。そうなると、まるで坂道を走り転がる輪のように
衰えていくばかりなのだーーという意味である。
なんとも耳がいたい。ズキンと思いあたるものがある。
しかも、兼好のこの文章は真向から切先鋭く迫ってくる。」
(p95~96)
ちなみに、「まえがき」には、2012年の文が掲載されておりました。
そこにご自身の家族のことが、さりげなく語られていておりました。
「もう18年も前になるが、夫が、ある日、旅先で夢のように逝き、
その後を追うように、息子が病死。私は、その間に入院、手術と、
嵐の時代がわが人生にもあった。・・・」
万葉集については『まえがき』から引用。
「なぜ、万葉集が好きか。この歌集は、生きていることを
何より大事にしていて、愛の心がどの歌にもみずみずしく
あふれているからである。恋の世界、兄弟愛の世界、親子の愛の世界、
それぞれが身にしみ通る愛隣の情で歌われている。
それと、もうひとつ。天然現象に対しても、動物、植物に対しても、
人間の仲間でもあるかのような共感を持って歌っていることにも、
目をみはる気がする。星の林に漕ぎ入っていく月の船、
花妻である萩の花を訪ねて恋を語る雄鹿。万葉を読めば、
生きていることが心底貴重なことに思えてくるし、
まわりものすべてがいとしくなる。・・・」(p6)
うん。『令和』という年号が決まった際に、わたしは、
万葉集を読もうと思った。けれど、本棚に未読のまま。
はい。清川妙さんは
1921年3月20日生まれ。
2014年11月16日に死去。