大岡信著「古典のこころ」(ゆまにて選書)の
「はしがき」にこうあったのでした。
「はっきりしていることの一つは、
私にとって『古典』は、私がかつて読んだもの
の中にしかないということ。・・・」
こう明快に指摘しております。それなら、私の古典はなんだろう。
そう、自分を振りかえってみたくなるのでした。
小中学校は、漫画とテレビ。
高校の頃も、長い読書は付け焼刃でおしまい。
それでも、ありました。
文藝春秋の「新編 人生の本」(江藤淳・曽野綾子編)というシリーズ。
全12巻で、テーマごとの短文のアンソロジーを編み上げたシリーズでした。
その9巻目「生活の中の知恵」という本が、どういうわけか今でも
本棚の隅にあります。
今頃になって、『新編』という箇所が気になって、
それ以前にも、このシリーズはあったのだろうと、
目星をつけて検索すると、ありました。まえに、
「人生の本」(亀井勝一郎・臼井吉見編)で別巻を含めて11巻。
それに「生活の本」(臼井吉見・河盛好蔵編)でこちらも11巻。
新編の方が、昭和47年に出ております。
「人生の本」は昭和41年。「生活の本」は昭和43年。
うん。どちらも好評だったのでしょうね。
さて、興味深いのは、
『人生の本』の第一巻目が、「生活の知恵」とあります。
『生活の本』の第10巻目は、「生活の中の美」と題しておりました。
そして、新編の第9巻目が、「生活の中の知恵」と題している。
はい。私の古典は、新編になるまで、いろいろと道筋があったようです。
新編の第9巻で私が気になったのは、幸田文の文「水」でした。
『人生の本』の①「生活の知恵」に、幸田文の「あとみよそわか」が、
『生活の本』の⑩「生活の中の美」に、幸田文の「おしゃれの四季」がある。
はい。題名に生活とあるアンソロジーには、幸田文がどちらにも登場する。
ここで、おもむろに『人生の本』の①「生活の知恵」から、
そのはじまりの解説を読んでみました。解説は河盛好蔵。
はい。ここでも、横着して「解説」のはじまりを引用。
「生活の知恵というと、なにか卑俗なもののように考えられやすいが、
それは毎日のパンのように、人間の生活には欠くことのできぬ大切な
ものである。それは私たちの日常生活をできるだけ快適な、
わずらいの少ないものにするための工夫である。もしくは
その日その日を最も充実して生きるための技術である。
人生の意味について考えたり、人生いかに生きるべきかについて
哲学的考察を巡らすことも、むろん大切なことであろう。・・・・・
・・そのためにはまず毎日の生活を賢く生きなくてはならない。
私たちの一生は一回きりのもので、くり返しのきかないものである
ことは誰でも知っているが、それが毎日の生活の積み重ねである
ことについては、大ていの人はあまり切実には考えない。そのために
日常生活をともすれば粗末に扱いやす。とくに若いときはそうである。
いや、単に若いときとは限らない。私などは、もういくら長生きをしても、
さきの知れている年齢になりながら、いまだに毎日を大切に生きているとは
云いがたい。自分が年をとっているということすら忘れていることが
しばしばである。そういうことに対して警告を発してくれるのも
生活の知恵といおうものである。
すでの述べたように、生活の知恵とは、毎日の生活を賢く生きる術
であるから、すべての人間が多かれ少なかれ、それを備えている。
・・・・」(p3~4)
はい。こうして、短文の各編をおもむろに紹介しはじめております。
ちなみに、『生活の知恵』が発売された昭和41年は、
河盛好蔵氏は64歳でした。
あれれ。幸田文へと言及するのを忘れました。