扇谷正造著「夜郎自大 現代新聞批判」(TBSブリタニカ・1982)。
この本を持ち出したので、この機会にパラリとひらいた箇所を引用。
「『知る権利』ということが、戦後しばしば、
ジャーナリストの間から高唱されている。
いったい、だれの権利なのか?いうまでもなく、
それは読者の、あるいは国民の権利であって、
ジャーナリストは、単にそれを委任されているに過ぎない。
ここのところが、どうも若い記者諸君にはよくのみこめていないようである。
・・・・・・・
朝日の初代論説主幹は池辺三山といい・・・
その主幹就任の弁に≪言職(げんしょく)≫
ということばがでてくる。くだいていうと、それは
『 自分たちの職業は、いわば言論(意見)を売る職業である。
それは八百屋さんが野菜を売り、魚屋さんが魚を売るのと
何等かわりはない。自分たちの書いたものが、
八百屋さんの野菜、魚屋さんの魚のように、
読者の生活の資として、何がしかの糧となれば、
自分の喜び、これに過ぎるものはない 』
と記している。言辞きわめて謙虚である。
しかも、ズシリ、重たい。 」(p33~34)
このあとに、扇谷さんは、さらに嚙み砕いて語っています。
「 ・・三山のいわんとしていることは
『 ミのあるニュース 』『 ミのある言論の提供 』
ということなのであろう。
そのニュースを読んで、読者は疑問なり、好奇心が満たされた、
あるいは、その言説を読んでハッと目をひらかれたという思い
を抱かせよ、ということをいっているのである。
野菜を食べた、ああおいしかった。魚をたべた、ああ満足した。
市民は、この場合、その一つ一つを自分の体験として実感する
ことができる。しかし、ニュースは、通常、市民には一方的に
与えられるだけで、はたして、それがどこまで事実か、あるいは
その考え方が妥当であるかどうかはたしかめることができない。
・・・・それを伝える新聞記者も、実は、
官庁なり警察なりからのまた聞きを記しているにすぎない。 」(p34)
歳末で読めなくてもいいや。と数冊の扇谷正造の古本を注文することに。