まずは、「安房震災誌」から握飯にかかわる箇所を引用。
「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
沢山郡役所の庭に運ばれた。
すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、
握飯をうんと背負ひ込んで、北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、
之を飢へた人々に分与したのであった。
又別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。
兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
郡役所の庭にあったものも矢張り同然で、
臭気鼻をつくといったありさまである。
そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに
疾病でも醸されては一大事だと気付いたので、
甚だ遺憾千萬ではあったが、その日の
握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。 」(p260)
この配慮に関しては、違うページに指摘がありました。
「 郡長は斯る場合に伝染病の流行は必定だと思ったので、
特に伝染病に注意を拂った。極めて少数の赤痢患者の外、
伝染病の出なかったのは、何より仕合せであった。 」(p244~245)
もどって、握飯の配給を停止した次を引用します。
「 ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた
力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
腐ったむすびがあるそうですが、それを戴かして貰ひたい。
と、いふのであった。
それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
郡当局も、此の光景を見せ付けられては、
流石に断らうとして、断はり兼ねたのであった。
そこで、郡当局は、斯うした面々に向って
『 よく洗って更らに煮直してたべて下さい 』
と条件付で、寄贈品の握飯を分配してやった。・・・ 」(p260)
このあとに、引用する箇所に、泣く乳児という箇所がでてきておりました。
「 食料品は一般に欠乏してゐたが、
傷病者と飢餓に泣く乳児とは、
何とか始末せねばならなかった。
殊に震災の恐怖で急に乳のとまった母が、
飢に泣く乳児を抱いて、共泣きしてゐるさまなど見ては、
郡当局は一掬の涙を禁じ得なかった。
幸に安房は牛乳の国である。
郡長は安房畜牛畜産組合に依嘱して、無償で牛乳の施與に
当らしむることとした。しかし、交通杜絶の場合である。
牛乳の輸送と、殺菌設備には、相当考慮を要するのである。
が、折柄東京菓子会社、極東煉乳会社の好意と、
青年団、軍人分会の盡力とで、
9月4日から牛乳を配給した。そして
10月7日まで、34日間之を継続した。
配給区域は、北條、館山、那古、船形と南三原の
4町1箇村であった。
――その上区域を拡張することは、事情が許さなかった――
施配した石高は、実に76石1斗3升の多きに上った。
施与延人員は、2萬人に達した。此の牛乳は、
全部郡内牛乳業者の寄贈にかかるものである。 」(p256)