和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

墓碑銘を読みあげ

2024-05-27 | 地震
関東大震災の際に、母親から常に言われていた安政の大震災を
思い浮かべたエピソードがあったのでした。
  ( p878~879 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

その回顧から思い浮かべるのは、
東日本大震災と、昭和6年岩手県田老村での大津波でした。


詳しくは、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の
第二章「昭和8年の津波」にある「子供の眼」(p120~)にあります。
それはそうとして、ここに引用するのは、
東日本大震災の後に出版された、
森健著「『つなみ』の子どもたち」(文藝春秋・2011年)です。

吉村昭の本に、尋常小学校6年牧野アイさんの作文が載っておりました。
森健の本には、そのアイさんの現在を尋ねております。
一部分だけですが、この機会に引用しておくことに。

「 『 津波はおっかねえから、地震が来たら
   ( 津波 )警報を待たずに逃げろ、というのは、
   うちでは口酸っぱく言われたことでした 』

 栄子(アイさんの子)の記憶には、アイのこんな習慣が深く刻まれている。
 
『 母は津波を忘れないために、夜寝るときには、洋服をきちんと畳み、
  着る順番に枕元に置いておく。玄関の靴は必ず外向きにして揃えておく。
  
  避難の際は赤沼山への道を決めておく。また、
  お盆のお墓参りでは必ず墓碑銘を読みあげ、
  誰が津波で死んだかを口にしていた。

  どの振る舞いも母自身への津波への教訓であると同時に、
  私たち子どもたちへの防災教育でもあったのです 』

 吉村の本の中でも、アイは取材にこう答えている。

( 現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、
  顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。
  豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、
  夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。

 『 子供さんはいやがるでしょう? 』
  と私が言うと、
 『 いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます 』
  という答えがもどってきた。

  荒谷氏夫婦にとって津波は決して過去だけのものではないのだ。 ) 」

      ( p250~251 「『つなみ』の子どもたち」 )

もうすこし引用して、最後にします。

「 吉村昭が取材に来たとき、アイは49歳、功二(荒谷)は田老町の
  第一小学校の校長だった。またその子ども、四女の栄子は
  中学生だったという。 ・・・・・・

  津波に遭ったこと、また津波の地に戻ってきたこと、
  そしてもう一つ付け加えるなら、あの作文を書いたこと。
  この三つの出来事がアイの人生の大きな転機となっていた。
  津波で家族全員が失われた。その悲しみ、そして、
  津波の恐ろしさを伝えることが、アイにとって
  昭和8年以来80年近い年月の責務となっていた。・・・」(~p252) 
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下から来る地震はこはいよ

2024-05-27 | 地震
富津尋常高等小学校・八田知英の短文があり、
そこに、安政の大地震と関東大震災が語られておりました。
引用しておきます。

「・・・やがて下から持ち上げられる様な気持でドーンと来た、
 私は『 地震だ。出ろ 』と思はず叫んだ。

 広尾訓導は『 大丈夫だ 』と云った
( 其の大丈夫だと言ったのは倒潰することはない、
  夏休中に教室の柱を修理したからの意味で有った )

 私は『 何に出ろ 』と言って外へ出た、
 ころころと転げて畑の中まで転げ落ちた。

 頭を上げて見ると『 ガラガラ 』と砂煙りを上げて
 東側の校舎が倒れるのを見た。

 私も広尾訓導も命を拾った。
 児童も早く逃げ出して居った。

 私の父母は江戸で生まれ安政の大地震のとき恐ろしい目に遭った。
 
 母は常に『 下から来る地震はこはいよ 』と教へてくれた。
 今更に母の言葉の有難味を覚える、

 下から来る地震東京湾沿岸三、四尺も隆起したところから見ると、
 下からまくし上げたに違ひない。   」
 
       ( p878~879 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
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