関東大震災で被災した安房郡役所から、重田郡書記が徹夜疾走して、
9月2日の午後一時半頃に、千葉県庁へ到ります。
そこから、県内各地へと安房の状況が伝えられることになります。
その様子をたどってみます。
本銚子町 ( 本銚子町青年団報 )より
「・・・翌2日に至って県下南部の震災も確実に伝へられ
人心恟々たる内に郡役所より通牒あり。
安房郡の震害甚しき故救護班を組織して出動せよとの事であった。
仍て早速青年団員中より有志を募集して15名を得た。
此の外に医師5名と総計20名で班は組織された。 」
( p1352 「大正大震災の回顧と其の復興」下巻 )
以下には、北條に着くまでの様子が書かれておりました。
「 愈々出発となったが汽車は日向以西は不通と聞いて銘々自転車を
準備して明朝を待った。
翌9月3日早朝出発日向駅からは自転車で夜来の雨に
道路泥濘幾多困難を凌ぎつつ漸く千葉に着いたものの
西海岸も矢張り汽車不通已むを得ず其のまま
巡査教習所に泊ることにした。不安と焦燥の一夜を明した。
あくればもう4日である。
今度は千葉駅前に自転車を預けおき、
汽車で成東まで引返し更に勝浦までは汽車、
之より自動車で天津へ着いた。
最早日は暮れてゐるが
前途が急がれて宿泊など出来ない。
徒歩鴨川着、小学校の庭にしばし仮寝の夢未だ結ばぬ2時間計りにて
又出発、和田町役場の庭に天幕あるを幸、
ここに又1時間計りの仮寝をしたのは夜半であった。
かくの如くにして漸く北條に着いたのは実に
5日の午前11時頃であった。
途中勝浦より千倉まで舟行された救護班小野田周齋外4名の
医師及団員1名は茲に合体したのである。
我等の班は救護班としては第一着であった。
そして最惨害を極めた那古船形方面へ行くことになった。・・・」
( ~ p1353)
旭町青年団報 より (p1387~ )
「本団は9月4日正午県召集の緊急救護出動の命あるや
団長は直に各支部に出動準備と人員の割当を通達せり。
午后4時に至り各支部より確定報告あり。
直に海上郡第二救護班医師4名団員12名、
旭町青年団割当分の編成を終り
警察分署を経て県に編成完了の報告をなせり。
6日一番列車にて出発、成東大網勝浦を経て、
途中困難と戦ひつつ鴨川に着き第一夜を明かし
翌朝徒歩して北條警察署に辿り着く。
直に警察並郡衙に到着報告をなし
先発隊海上郡救護班銚子第一班と事務引継ぎを終り
食糧部より給与の玄米を焚き夕食をとり
案内さるるまま北條食堂に一泊す。 」
以前には、銚子青年団の活躍を引用したことがあったので、
ここには、旭町青年団の記述をつづけて記録しておきます。
「 一行は東天明けぬ内に、那古町に行き茲にて2班に分れ
医師2名団員6名船形町へと急行す。
船形町も全滅同様の惨状にて立てる家一戸とてなく
寂寞荒れ果てたる廃墟の如く夜間は総て燈火なく全く暗黒たり。
到着早々治療準備を行ひ8時より診察す。
団員は主として受付手伝及各種の伝令、衛生材料運搬食糧分配等で
那古町は観音堂下船形町は船形クラブで不眠不休の活動を為し、
夜間は主として重患者を館山水産試験場へ彼の湊川を徒渉し、
駆逐艦川風よりの探照燈を唯一の頼りとし輸送す。又水の運送等も行った。
救護人員の計813名にて船形町は内科の48名外科の414名、
那古町は内科の35名、外科の316名の多数であった。
右総て延人員にて本職等の余り知る所にあらざれど
受付簿に依り記載す。
9日午後3時交代者来るにより引上げ命令あり。
引継をなし郡役所並北條警察署に完了の報告を済し
帰郷する旨を告ぐ。
一行は出発以来不眠不休の活動にて加ふるに
飲食物さへ不充分なるため皆やせ心身の疲労甚し。
8時漸く雨は止んだ。風浪高きも出帆すとの報あり。
帰心矢の如き折柄、元気は百倍せども
前日正午夕食を摂りしままにて空腹と疲労は増すばかり
漸く乗船す風浪高く皆船酔せり。
午後4時木更津沖へと着く。
上陸し5時30分に乗車し千葉にて乗替10時に佐倉に下車一泊す。
翌朝一番にて帰郷することにした。
重任も果し出発以来初めての入浴に心身の疲労一時に増し
初めて布団の上に眠る事が出来た。
一同記念撮影をなし地震講を組織し、
9月6日を記念日とし、茲に目出度解散するを得た。 」(~p1389)