『安房震災誌』に、「青年団の力」という言葉がありました。
その箇所を引用してゆきたいと思います。
「 今次の震災に當て、青年団が団体的にその大活躍を開始したのは、
平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
総動員を行ひ、2日未明、郡役所在地に向け応援したことに始まり、
遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。・・・・・・・
青年団の第1段の仕事は、
死傷者の処理であった。
同時に医薬、衛生材料、食料品の蒐集であった。
2日の如きは、市中の薬局の倒潰跡に就て、
死体及び此等諸材料の発掘に大努力をいたされた。
・・・・・
第2段の仕事は交通整理であった。
地震に打ち倒された家屋の瓦や柱や、板や、壁などが一帯に、
道路に堆積して、通交の不能となってゐるは勿論
路面の亀裂、橋梁の墜落など目も當てられない中に、
之れを整理して、交通運搬の途を拓いたのは、
実に青年団の力である。
・・・僅かに一軒の取片付でさへも容易の業でないが、
幾千百の倒潰家屋である。而かも運搬が自由でない。
いはゆる手の着けやうのない様であったのである。
第3段の仕事は、
救護品、慰問品、斡旋品などの陸揚、配給は勿論、
各町村への伝令等であった。
あの大量な救護品、慰問品、斡旋品の殆んど全部の配給は、
実に青年団の力である。若し青年団がなかったならば、
救護事業の多部分は、あの通り敏活には処理出来なかったであろう。
要するに、地震のあの大仕事を、誰れの手で斯くも取り片付けたか。
といったならば、何人も青年団の力であった。
と答ふる外に言葉があるまい。・・・・
ところが、青年団には、何の報酬も拂ってゐない。・・・
然るに報酬どころか、何人も当時にあって、
渋茶一つすすめる余裕さへもなかったのである。
それどころか、飯米持参で、而かも団員は自炊して、時を凌いだのであった。
・・・当時は雨露を凌ぐべき場所とては、
北條町では僅かに北條税務署とゴム工場、納涼博覧会跡の一部に過ぎなかった。
そして税務署以外は、何れも土間である。
折柄残暑で寒くこそはなかったが
湿気と蚊軍の襲来には、安き眠も得られやうがなかった。
加之ならず、何れも狭隘の上に、多人数である。
分けて雨の晩などは雨漏で寝所がぬれて立ち明かしたこともあった。
・・・・ 」(~p286)
その記述の次には、大正13年1月28日調べの
「他町村救護に盡したるもの」の町村団体名の延べ人数一覧が載っております。
そして、p289~290には、「郡外よりの救護団体」が記されてあります。