「安房震災誌」に、
「米の欠乏と罹災者の窮状」という箇所があります。
そのはじまりは、
「安房郡の全体からいふと、米は平年に於て、自給自足の土地である。
此の大体論から推察すると、安房は大震災があっても・・・
米の欠乏は左まで甚だしくない筈である。と、思はれるのである。
・・・然し・・・外観上の皮相論に過ぎない。 」(p258)
こうして、実際の窮状を指摘しておりました。
「 9月1日の震災の当時まで持越されるやうなものは
大体に於て、殆ど総てが籾(もみ)米である。
籾米が即刻の役に立たぬのはいふまでもない。
加之ならず、籾摺器も、収納舎も、悉く地震で破壊されて了ったのだから
手の着けやうがない。それでも、純農家の方は、辛くも一時の
凌ぎやうもあらうが、被害の激甚な土地は、
鏡ケ浦沿ひの市街地であり、漁村である。
平素に於て、農村地から米の供給を仰いでゐるのである。
多少の買置き位は兎も角も、それすら、倒潰家屋の下敷となって、
物の役に立つべきものがない。
突如として起った大震災である。・・激震地に米のないのは不思議はない。
その上に道路も橋梁も破壊されて、
米の輸送の途は絶対に断たれて了ってゐる。
安房は自給自足の國だなどとの悠々閑々たる皮相論は、
此の大震災に直面しては、何処へも通用ならぬのである。
米騒動の起らなかったのが仕合であった。 」(p259)
ここに、『 米騒動 』という言葉が出てきておりました。
井上清・渡部徹編「米騒動の研究」第一巻(有斐閣・昭和34年)の
「騒動の構造」のなかに、いくつかに分けられる構造のひとつが
印象に残ります。そこを引用。
「・・・・この型では・・市町村当局や有力者に生活救済を嘆願するが、
家屋や器物の破壊など暴動にはならない。・・・・
また富山県下では、女の集団が椀をもって資産家の門前に立ちならび、
救済要求の沈黙の示威をしている例もあるが、この形は同地方では、
この年以前にも何回かおこなわれている。
・・古い例では、富山県ではないが、佐渡の相川で明治維新前にもあった。
『 安政元治の交(1854~64年)米価暴騰のさい、
窮民の婦女ら数十百人相集まり、
人毎に椀一個を持ちて役所の前に集まり、
組頭役の出庁を伺い、之を囲繞して
無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・ 』(「相川町史」)。 」
( p105~106 「米騒動の研究」第一巻 )
はい。あらためて思い浮かんで来たのは
『安房震災誌』のこの場面でした。それをまた引用して終ります。
「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
沢山郡役所の庭に運ばれた。・・・・・・・
兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為に腐敗しだした。
郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、
臭気鼻をつくといったありさまである。
そこで郡長始め郡当局は、・・・・
その日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。
ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた力ない姿の
罹災民が押しかけて来て、
腐ったむすびがあるそうですが、
それを戴かして貰ひたい。
と、いふのであった。
それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
・・・・・・・ 」(p260「安房震災誌」)