和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

それから丁度4年目のこと。

2024-05-20 | 安房
『安房震災誌』は、大正15年3月31日発行とあります。
そして、編纂兼発行者は千葉県安房郡役所とあります。

すこし、郡制の廃止にふれておきます。検索すると、

「 1921年(大正10年)4月12日に
          『 郡制廃止ニ関スル法律案 』が可決され、
  1923年(大正12年)4月1日に郡制が廃止された。
           郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、
           郡長および郡役所は残務処理のため
  1926年(大正15年)7月1日まで存置された。        」


はい。宮沢賢治が稗貫郡立稗貫農学校教諭となったのが大正10年でした。
のち、大正12年4月に郡立稗貫農学校は、県立花巻農学校となっております。

安房では、大正11年2月に郡立安房農業水産学校の創設が認可され。
大正12年4月25日、県立安房水産学校の設置が認可されたので、
水産科を廃して千葉県立安房農学校と改称した。


こうして、関東大震災の大正12年9月1日には、
ちょうど、郡制度が廃止された年だったのでした。

    郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、
    郡長および郡役所は残務処理のため
    1926年(大正15年)7月1日まで存置された。 

この残務処理の期間に、関東大震災がおこったのでした。そして、
大正15年までの期間内で『安房震災誌』が発行されておりました。

郡制については、こうありました。

「 この郡制に、府県で処理するには小さく、
  町村で処理するには大きい事務を処理させるため、  
  両者の中間に位置する行政・自治団体としての機能を
  付与したのが法律としての『郡制』である。 」

こうして、安房郡長・大橋高四郎の時代的な背景がわかります。
さいごに、『安房震災誌』の序文にある、大橋氏の文のはじまり
を引用しておくことに。

「 私が安房郡に赴任したのは、
  大正9年12月のことで、まだ郡制時代のことであった。
  大正12年9月の関東大震災は、それから丁度4年目のことである。  」


コメント
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