「 瓦礫の下で救出を待っている人たちの生存率は
72時間で急激に下がっていきますから、
最初の72時間は最大限、救出活動に全力を挙げる
というのが世界の常識です。・・」
はい。この72時間というのは、最近はよく知るところとなっております。
引用は、門田隆将著「死の淵を見た男」(PHP・単行本2012年・p132)。
最初の一手を、間違えない。ということで、なんども、
反芻しておきたいのは、東日本大震災の72時間でした。
「そういえば、政府と東京電力が一体となって
原発事故にあたる『 対策統合本部 』の設置(3月15日)よりも、
蓮舫行政刷新相に節電啓発担当相を兼務させる人事(3月13日)のほうが
先というのも、ピントがぼけていた。」 ( 5月18日一面コラム )
( p197 竹内政明著「読売新聞一面コラム『編集手帳」第20集 )
この竹内政明氏の一面コラムの4月7日には、
震災4日後に発足した『福島原子力発電所事故対策本部』のことが出て来ます。
「政府の各府省と東電が、目と、耳と、口と、脳みそとを、
ひとつ場所に持ち寄ってこその『対策統合本部』のはずである。
疲労が重なっているのも分かるが、現場作業のような
被爆の危険にさらされているわけではない。大事な局面で、
やれ『聞いていない』だの、『寝耳に水』だのと
内輪でもめる司令基地ならば存在しないと一緒だろう。 」
「 政府と東京電力が全情報を共有して事態に対処する、
との触れ込みで震災4日後に発足している。
放射能の汚染水を東京電力が海に放出することを
農林水産省は事前に知らなかった。
当然ながら、漁業関係者には伝わらない。
外務省も知らなかった。通告なしの放出に
憤る韓国政府から抗議を受けた。 」
はい。こちらは、震災の4日後に発足した本部のことでした。
比較する意味で、この箇所を引用したのですが、
以下には、『安房震災誌』の中に出る72時間を拾ってゆくことに。
関東大震災当日の9月1日。郡役所はどうだったのか。
「青年団の来援も、救急薬品等の蒐集も、炊出の配給も、
其の他一切の救護事務は、郡衙を中心として活動する外なかった。
ところが、郡衙は既に庁舎全滅して人の居どころもない。
1日は殆ど余震から余震で、而かも吏員は救急事務に
全力を盡しても尚ほ足らざる始末で、露天で仕事をやってゐた。
・・・萬事の処理に不都合で堪らない。そこで、
吏員の手で3日、漸く畜産組合のぼろぼろに破れた天幕を
取り出して形ばかりの仮事務所を造った。
そして、危く倒潰を免かれた税務署から僅かばかりの椅子を
借りて来て、事務を執った。・・・・」(p239)
「救護事務の中でも、第一義的なものは、死傷者の処理である。
それは警察署と密接な関係がある。警察署も矢張り倒潰して
了ったことであるから、同じ場所で執務するのが便利であるので、
郡吏員と警察署員とは、郡衙の斯うした手製の仮事務所で
一緒に救急事務を取扱ったのであった。
救急事務は不眠不休でやり通うした。
1日の震災直後から、2日3日頃までは碌々食事を攝らなかったが、
又大した空腹も感じなかった。蓋し極端な緊張と眼前の惨状に
空腹さへ感じなかったであろう。・・・・ 」(p240)
勝山町にも、1日からのことが記されています。
「本町に在る東京菓子会社、極東会社、ラクトウ会社、各工場内の
機械は破損し、為めに休業の止むなきに至った。
其の結果、9月1日より20日間位は全町内の牛乳を無料にて
一般町民に分配するの状態であった。・・・ 」(p141)
震災当日の千葉県庁への急使のことも出てきております。
佐野郡書記が1日の午後2時過ぎに、県への報告の途に上った。
「佐野氏は出発したが、郡長を始め主もなる庁員の心には、
『 此の場合のことだから果して県庁まで行き了せるだろうか? 』
といふ心配のない訳には行かなかった。
そこで、重田郡書記は自ら進んで、此の大任に当らんと申し出た。
安藤郡書記も亦た同様に申し出た。誰れの心裡にも同様な心配があった
のである。・・・佐野氏の出発後、共に郡衙を立ち出て、千葉へと向はれた。
県への報告の要旨は第一は安房震災の惨状であるが、
第二は工兵の出動と医薬、食料の懇請であった。・・・・
・・重田郡書記は、徹夜疾走して、翌2日の正午を過ぐる1時半頃、
他の2氏に先んじて、無事に県庁に到り、報告の使命を果たしたのであった。
加之ならず、途中瀧田村役場に立寄り、炊出の用意を托して行ったので、
翌2日の未明には、山成す炊出が青年団によって、北條の郡衙へと運ばれた。
瀧田村が逸早く震災応援の大活躍に當られたのは
重田郡書記の通報に原因したのであった。 」(p236)
たとえ、百年前であっても、震災後の72時間の重要さについては、
頭をかすめたことでしょう。つぎに郡長大橋高四郎がどう判断したのか
「無論、県の応援は時を移さず来るには違ひないが、
北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。
手近で急速応援を求めねば、此の眼前焦眉の急を救ふことが出来ない。
そこで、郡長は・・・山の手の諸村が比較的災害の少ない地方であろう
と断定した・・応援を求めることに決定した。 」(p237)
まわりを見回しても
「適当な使者を尋ねたが、庁員は・・救護の為めに忙殺されて居るし、
学校の職員も、その他の人々も、当面の急務に忙はしく、
殊に自己が被害者で眼を廻はしてゐるので、
使者として平群、大山方面へ遣はすべきものが何処にもゐない。」
そこに、久我氏が急使を受けることとなります。
「然し、北條から・・諸村へ行くには、平日でも可なり
道路のよくないのに、夜道ではあり、大地震最中のことで、
果して使命を全うし得られるか、否か多大の疑問であった。・・・・
郡長の意をうけて、夜中此等の諸村に大震災応援の急報を伝へた。
・・すると、此の方面諸村の青年団、軍人分会、消防組等は、
即夜に総動員を行って、2日未明から、此等の団員は
隊伍整々郡衙に到着した。
郡当局は応援の此等団員を4隊に分ちて、
1は館山方面、1は北條方面、1は那古船形方面
の圧死者の発掘等に充て、
そして他の1は救急薬品等の蒐集に當らしめた。 」(~p238)
こうして、さらに次の一手を郡長は考えておりました。
「上記の如く、真先きに県へ急使を馳せて、県の応援を要求してはおいたが、
医薬、食料品の必要は寸時も時をうつすことが出来ない。
そこで、館山にある県の水産試験場に ふさ丸と鏡丸の発航を依頼した。
・・・ふさ丸は機関部に故障があり、鏡丸には軽油の蓄へなく、
その上地震の為め機関長の生死が不明であったので、
2隻ともどちらも即刻の間に合わなかった。
・・・・2日の夜半漸く出帆準備が出来た。
汽船の準備は出来たが、震災の為めに海底に大変動があり、
且つ燈台は大小何れも全滅して了った。・・・・
3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉に航行した。
鏡丸には門郡書記が乗船して、救護品に就ての一切の処理に任じた。・・
翌4日の午後8時15分には、又無事に館山に帰航したのであった。
鏡丸には玄米百俵と、若干の食料品と、そして
県の派遣員16名と、看護婦4名とが乗船してゐた。
是れが千葉からの最初の応援であった。
郡当局は斯うして最初の救護品を蒐集した。 」(p257~258)