和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

鏡ケ浦沿いの震災写真帖

2024-05-30 | 安房
「安房震災誌」から、北條町・館山町などの家屋倒壊の状況を
あらためて、引用しておきます。

「震災当時に於ける、北條町の総戸数は1616戸であったが、
 そのうちの1567戸は、地震の為に、全潰、半潰、焼失の厄に遭った。・・

 館山町は当時総戸数1678戸で、その内の1663戸が、矢張り
 全潰と半潰と焼失とであった。・・・

 那古町も百分の98、船形町も百分の92といふ被害である。
 此等鏡ケ浦沿ひの町は、実に建物全滅といふ状態である 」(p265)

そのあとに、光田鹿太郎氏が、大阪へ資材を懇請しに出発する
9月11日までの状況が語られております。

「 従って、その応急手段として、小屋掛の必要なことはいふを俟たない
  のであるが、当時小屋掛材料の欠乏には、郡当局の頗る困却したところで  
  ある。罹災者の中には破れた戸板や、板切れなどで僅に
  雨露を凌ぐ用意をしたものもあったが、
  多数の罹災者は、それすらも出来なかった。

  雨のたびに折角取出した破れ残りの家財や商品などは、
  之を始末するの方法がなかった。

  殊に瀕死の病者や、産婦を持つ家では、
  せめて屋根の下で介抱しやうとしても、それが出来なかった。
  そして斯うした惨状が、つい10日もつづいた。

  中には郡衙に救護を頼んで来るものも少なくなかった。
  医薬、食料の大欠乏で大困却をした郡当局は、
  小屋掛材料の欠乏でも、亦たそれに劣らぬ
  大いなる困難を感じさせられたのである。  」(p266)

そして軍艦に乗船させてもらった光田鹿太郎氏が
館山湾を出航したのが9月11日、
館山湾へ帰還したのが9月28日だったのでした。

「安房震災誌」に「善行表彰」という章がありました。

「・・中に郡長より県に調査報告したいはゆる
  功績顕著なるものをここに掲げる。・・ 」(p339)

とあり、その最初にあるのが光田鹿太郎氏でした。
次には、震災当日県庁へ急使を買って出た郡書記重田嘉一氏。
その次、当日郡内平群、大山、吉尾へ急使に立った久我武雄氏。
この順に、記載があります。

どれも、郡長による、県への調査報告が正確にして躍如としております。
ここには、前回気になっておりました『 安房震災写真帖 』について、
その経緯が、この調査報告書に記してありましたのでそこから引用。

まず、前回引用した箇所はこうでした。光田鹿太郎氏が大阪府にゆき

「府当局及び府市の有志者から成る関東大震災救護に関する委員の
 会合があったので、それへ出席して、安房大震災に関する
 一場の講演を為し、且つ携ふるところの安房震災写真帖を示して、
 大阪人の前に安房大震災の惨状を開示した。・・・」(p267~268)

ここに出てくる『 安房震災写真帖 』について
郡長による調査報告から切り抜いてとりあげておきます。

「氏(光田)は大震以来一身一家の一切を放擲し八方に奔走して
 寧日なく今日に及ぶ事績の特に顕著なるもの左の如し。

 ① ・・・・
 ② ・・・・
 ③ 3日余震尚ほ甚だし此の時に当り
   震災の現況を撮影し置くは永久の紀念たるのみならず
   教育上、歴史上、科学上有効の材料たるべき旨を建策し   
   写真師を伴ひ危険を冒して其の撮影に努む

   此の写真は御差遣の侍従及び山階宮殿下の御目にかけたるに
   何れも好材料なりとて御持帰りあらせらる
   其の他地震学者等多数本部視察者に於て複製して参考に供せらる。 」

この写真帖作成は、光田氏による発案実行だったことがわかるのでした。
①と②はここではカットしますが、➃と⑤はひきつづき引用しておわります。

「➃ 災後数日にして医薬食品の配給稍や其の緒に就くや
   次に欠乏を感ずるは小屋掛材料殊に屋根材料なり
   屋根材料としては此際『 トタン 』を措て他に適当のものなし
  
   氏は大阪に知己あり多少該品の買付を為し得るの確信ある旨を
   通じ乃ち小官の依頼をうけ9月10日交通機関は依然破壊状態にして
   旅程困難なるに際し萬難を拝し方途を盡して大阪に赴き
 
   亜鉛板10萬枚、釘300樽其の他の買付を為すと共に、
   大に当地の惨状を説き同情を喚起し幾多慰問品の寄贈を得たり

   10月更らに第2回の亜鉛購入の為め下阪し
   大阪神戸の間に奔走し亜鉛板5萬枚、釘1200樽購入の任を全うす。

 ⑤ 11月下旬3たび大阪神戸に下り布団、毛布募集の大遊説を試み
   布団、毛布其の他千余の寄贈を受け家屋の焼失、流失者に分与し
   寒さと飢に泣く罹災者を救ふの途を講ぜらる。

 以上氏が真に罹災者を思ふの熱情と犠牲的精神の然らしむるものにして
 其の功績顕著なりと謂ふべし。   」(~p342)


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