和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

そこから吹いてくる。

2021-02-22 | 本棚並べ
入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)で、
入江敦彦は、今西錦司を紹介しております。

「けれど、やはりここは今西でなければならぬ。
なぜなら京都語が森羅万象に敬語で接するように、
彼にはいわば学問対等意識めいた感覚があったからだ。
 ・・・・・・・・・

京の老舗は格式が高いほど、名代の改良改善に余念がないものだが、
変化を恐れず、自らの説に固執することなく学問する姿勢もまた
見事に京都人の作法と一致する。
『今西錦司全集』(講談社)の後半、十から十三あたりは
学術だと敬遠せずに読んでみる価値は大あり。
・・・・」(p198~199)


はい。この箇所が私には印象深く。
さっそく古本で『今西錦司全集』の、指摘されている
巻を購入したのでした。購入したは購入したのですが、
本棚にひらかれないままに鎮座しており、
たまに、気になるのですが、
そこはほれ、開かない腰がおもい私です。

さてっと、本棚からとりだしてきたのは、
谷沢永一著「十五人の傑作」(潮ライブラリー・1997年)。
そこに居ならぶ15人の、はじまりが、今西錦司でした。

谷沢氏はこう指摘します。
「生産的な思考の第一着手は、言葉の手垢を拭い取る清掃であり、
そして可能な限り素朴な本来の意味に圧縮、
良識の脈絡に嵌(は)め込む作業である。」(p13)

谷沢氏は、「日本動物記」の読後感を書いた開高健の指摘も、
その後に、引用しておりました。


「開高健はまず文章論から始める。
今西『博士の文章は、観察記録がとくにそうだが、
どれを読んでもじつに透明である。垢や臓物がないのである。
爽やかに乾いている。ときどきむきだしの剛健なユーモアがとびだす。
ほとんど傍若無人にのびのびしていて、
学界にどう思われるだろうか、こう思われるだろうかと右見たり左見たり
したあげく衒(てら)ってみたり、謙虚ぶってみせたりという気配が、
どうも感じとれないのである。何かしら
そこから吹いてくる風は独立、自尊の気風である。
思惑と指紋でベトベトに穢れた文壇の文章ばかりを読んだ眼には
それがとても気持がいい。おそらくそれは博士が即物の人である
ことからくるのだろうと思う。よほどの生の蓄電が生む透明にちがいない。
しばしば非情なまでに透明である。
〈 あれは直立類猿人や 〉一人の京都の学者がそういった』。
(p21)

うん。引用はこれくらいにして。
さて、本棚の『今西錦司全集』後半を、
私は、ひらくのかどうか。それが肝心。
はい。このくらいの溜めをつくっておけば、
また、いつか堰を切ったようにして、読める。
そう、なりますように。
ああ、読みたいと、惹かれる気持がなにより。


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