徒然草の第41段は
「五月五日(さつきいつか)、賀茂の競べ馬を見侍りしに・・」
とはじまります。上賀茂神社の競べ馬を見物に行ったところ、
柵の近くは、とりわけ人々が混雑していて、分け入る隙間がない。
「 殊に人多く立ち混みて、分け入りぬべき様も無し。」
うん。ここは原文でつづけてみます。
「 かかる折に、向かひなる楝(あふち)の木に、
法師の登りて、木の股に突き居て、物見る、有り。」
はい。この第41段からあとは、
いろいろな法師が登場します。
今回はというと、
「 取り付きながら、いたう眠(ねぶ)りて、
落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。
これを見る人、嘲(あざけ)り浅みて、
『 世の痴れ者かな。かく危き枝の上にて、
安き心ありて、眠るらんよ 』と言ふに・・・」
このあと、兼好自身が『ふと思ひしままに』言葉を発すると
その言葉から、思わぬ展開をするのでした。
うん。その展開部はカットして、第41段の最後を引用。
「人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事、無きにあらず。」
ここをガイド・島内裕子さんの『評』では、どう捉えていたか。
「・・因幡の娘が、栗ばかり食べていたように、
兼好は、本ばかり読んで生きてきた。
書物の世界に沈潜して、見ぬ世の人を友とする
ことも大切ではあるが、そればかりでは、
現実から隔てられてしまう。外界から隔てられた
静謐(せいひつ)な思索だけでは、不十分なのだ。
・・・・・・
爽やかな青葉若葉の賀茂祭りの出来事は、
外界に一歩踏み出した、『兼好再誕』の記念日だった。
だからこそ、この日付が重要なのだ。・・・・」
(p94 文庫)
つづく各段を、すこしコマ送りしてみると。
第42段では、行雅僧都(ぎょうがそうず)。
第45段では、良覚僧正(りょうがくそうじょう)。
第46段。この段はきわめて短いので引用したほうがはやそう。
「 柳原の辺に、『強盗の法印』と号する僧、有りけり。
度々、強盗に遭いひたる故に、この名を付けにける、とぞ。」
第46段の島内さんの『評』はというと、
「 『堀池の僧正』(第45段)の話を書いているうちに、
もう一つ、あだ名の話が心に浮かんできたのだろう。
強盗と法印という言葉の結びつきが意外で、兼好も、
法印自身が強盗なのかと、早とちりしそうになった
のかもしれない。しかし、よく聞いてみるとそうではなく、
何度も強盗に入られたので、こんなあだ名を付けられたのだった。
このあたりの記述の流れは、まさに序段で述べていたように、
『 心にうつりゆく由無し事を、そこはかとなく 』
書き留めていて、しかも不思議と、一読忘れがたい話になっている。」
第47段では、「ある人が東山の清水寺にお詣りしたところ、
年老いた尼と道連れになった。」とはじまる。
第49段では、こうはじまっていました。
「老い、来りて、初めて道を行ぜんと、待つ事勿(なか)れ。」
そうそう、仁和寺が第52~54と続いておりました。
第52段では、
「仁和寺に有る法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、
心憂く覚えて、或る時、思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。」
とはじまります。
第53段の「これも、仁和寺の法師・・・」とはじまるのは、
宴会で「足鼎(あしかなえ)を頭にかぶって」とれなくなる話でした。
第54段は、「御室にいみじき稚児の有りけるを・・」と始まります。
訳というと「仁和寺に、とても可愛い稚児がいるので」とあります。
このくらいで、今日の始まりへと、もどることに。
徒然草第41段の『評』を島内裕子さんは
『外界に一歩踏み出した、『兼好再誕』の記念日だった。』
と書いていたのでした。島内さんの連続読みからすると、
この第41段の5月5日というのは重要な記念日だった。
その段の『評』は、どうしめくくられていたかというと、
『第38段から第41段にいたる一連の記述は、
徒然草全体の中でも、非常に大切な屈折点である。』
ここは、思いっきり飛ばして、
ちくま学芸文庫「徒然草」の、最後の解説をひらくことに。
はい。解説も島内裕子さんが書いております。
「世の中のことや人生に対して、思索の行き着くところまで
急激に突き詰めて、壁に行き当たっても、
精神の緊張を解き放つかのように、
ふとユーモラスで柔軟な思考と表現が生まれ出ることがある。
徒然草の滑稽な話は、多くの場合、このような精神の
緩急運動から生まれることは、全体を通読してこそわかることである。
兼好自身、徒然草を書くことによって、
精神の平衡を保ち、成熟もしていった。
そして次第に、名も無き他者の言動に注意深く耳を傾け、
書物からだけでは得られないような、この世の真理にも
気づかされるようになったのである。・・・」(p492 文庫)
コメントありがとうございます。
今日は暑いです。なぜなのか。
不思議と徒然草の原文の方を
読んでいる方が涼しく感じる。
簡潔で、切り立つような文でもって、
心理的なまとわりつきがないためか。
私にとっては、暑ければ暑い時ほど、
徒然草原文へチャレンジのチャンス。
今年の夏は、そう思いながらですが、
徒然草を、最後まで読んでゆきます。
そうそう。徒然草第81段の『評』で
島内裕子さんは書いておりました。
「 徒然草を読んでいると、日頃、
自分が心の中で考えたり薄々
感じたりしていたことが、
次々と立ち顕れてきて、
『あやしうこそ、物狂ほしけれ』
という気分になる。
その共鳴感覚が、徒然草をして、
永遠のベスト・セラーたらしめ
ているのではなかろうか。
徒然草には、どこにも
奇矯なものはない。
何という、すこやかさ。 」(p165)
はい。水仙さんのワクワク感も、
言葉にすれば、こんな感じかな。