和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

句の匂い・響き・映り。

2022-05-26 | 本棚並べ
今年はじめて、私は俳諧への興味が湧きました。その際に、
例えば、初対面の人なら、知り合いの誰かを思い浮かべる。
以前にあった人の、誰かと似てるのではないかという連想。

さて、『俳諧』クンとの出合いで思い浮かんだことを、
書いとくのは、まんざら無駄ではないように思えます。

そうして『徒然草』の文が思い浮かぶのでした。
『徒然草』と『俳諧』の互いの雰囲気の類似点。

まずは、『俳諧』クンの素顔というか雰囲気が気になりました。

大岡】 ・・・芭蕉と蕉門俳諧の特徴は、付け句の
  (前の句と響きあうように句をつくるのを、付けるといいますが)
   洗練の度合が格段に高まった点にあります。

   それ以前の貞門・談林あたりでは、
   だいたい言葉とか物に合わせて付けていったけど、
   芭蕉は、それを単純な付け合わせから
   情緒そのものの付け合わせに高め、
   いわば芸術的に高めることをしました。

   句の匂いといったり、響きといったり、映りといったりしますが、
   いずれにしても、前句と付け句の間の関係を
   そういう尺度で測るようになり、

   付け方は前句との間に微妙な綾を織るようになります。

   余情(よせい)を重んじて、前の句がいおうとして
   いい切っていない隠れた意味を読みとって、それに付ける
   というようなことを芭蕉は好みました。

   芭蕉の一門の俳諧を読んでいて深みがあるのはそのためです。

         ( p8~9 「とくとく歌仙」の「歌仙早わかり」 )

ここに、『付け方は前句との間に微妙な綾を織るようになります』とある。
ふつう、文章を書く際は、こんなことは考えもしませんね。俳諧ならでは。

ここから、『徒然草』を引用したいのですが、いきなりの引用もなんなので、
その前に、外山滋比古氏の随筆の最初を引用してみます。


「 徒然草のある解説を見たら、冒頭に
 『徒然草には矛盾が多いということはよく聞くのであるが・・』
 とあって、びっくりした。
 第6段では子供はない方がいいと言ったかと思うと、
 第142段では子供のない人にはもののあわれがわからない
 という話に賛同したりしている。
 これを『矛盾というなら確かに矛盾である』と続いている。
 その先を読む気をなくしてしまった。

 『渡る世間に鬼はなし』も真なら、
 『人を見たら泥棒と思え』というのも、残念ながらやはり真である。

 一見いかにも矛盾であるが、一方を立てて他を棄てるようなことがあれば、
 残った方の正当性も怪しくなってしまう。
 両方そろってはじめてそれぞれが生きる。

 幸いなことに、諺の解説をして、
 その矛盾をあげつらう人はすくない。
 
 諺の理解は胸で行なわれるが、
 作品の理解は頭でなされる。

 頭の理解では、論理とか矛盾とかが気になりやすい。

        ( p121 外山滋比古著「俳句的」みすず書房 )


さいごに引用するのは、沼波瓊音著「徒然草講話」(東京修文館・大正14年)

この本は、徒然草の各段を原文・訳・評と、わかりやすく書かれて全文を
網羅しております。たとえば、第41段の評のはじまり。

【評】 面白い実話を思ひ出して書いたのである。
   これは前々段の『眠』から聯想して想ひ出したものらしい。

   この徒然草は、それからそれへと連鎖がつながってるところが多い、
   と云事は芳賀先生に承ったことである。
  
   それまではしみじみとは此事に気が付かなかった。
   こんな事は注意しなくても宜しいことであるが、注意して見ると、
   兼好の所謂『心にうつり行く』心の状態が段々見えて行って、
   その点でも面白みがある。

   ここなどは一つ飛んで縁がある。かう云事も、
   我々が随筆やうのものを書く時にもあることだ。
   もっとも全く鎖のきれてるところもある。
   それは自然なことである。
   どこもここも皆連鎖であったら、
   却ってこの書は作り物めいて厭味にもなるのだ。   」(p120)



あと、一箇所引用(パラパラめくりでたまたま開いた箇所)。

第12段から第13段にかけてですが、ここには第13段の評を引用。

【評】 前の段で、友と云ものを否定した。
   それを受けて、書を読んで古人を友とするのは
   実に大いなる慰藉であると云って来たのである。

   この続き工夫を味ふべきである。
   私も一々同感である。

   生きた人間はくだらない又は此方に取って
   不快に思はれるやうな附属性を有ってる。

   其為に友交と云事をするには、互に幾分の虚偽を
   しなくてはならぬと云悲哀がある。

   会ったことも無く、手紙だけで交際してると云事は、
   それに比べると余程醇な交りである。

   著書を読むに至っては、更に醇なるもので、
   書には著者の最重き、光のある、力のある
   所のみが印されてるのである。

   勿論自分と考の合はない所はあろう。
   が、そう云所はここは合はないとして、
   合ふ所だけを読めば宜いのである。

   この合ふ所こそ実に前段に所謂まめやかなる心の友である。

                   ( p40~41 )



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