梯久美子著「昭和二十年夏、女たちの戦争」(角川書店)を読んだら、そこに登場する吉武輝子さんの本を読んでみたくなりました。一冊。吉武輝子著「女人 吉屋信子」(文藝春秋)を、とりあえず、古本で買いまして読みました。
読んで、私の興味は、関東大震災の箇所へといきました。
たとえば、こんなところ。
「信子と千代が手をたずさえて、念願のパリに向かって旅立ったのも、下落合時代――昭和3年のことだった。ちょうど、この頃は、文壇に『洋行熱』が蔓延、秋田雨雀、宮本百合子、湯浅年子、久米正雄、横光利一、正宗白鳥、林不忘、三上於菟吉・長谷川時雨夫婦、与謝野寛・晶子夫婦、佐藤春夫など文士たちが、つぎつぎに、ソヴィエト、ヨーロッパ、アメリカ、中国へと旅立っている。大正末からはじまった円本時代が、文士たちに多額な印税をもたらしたからだった。
円本時代の口火をきったのは改造社である。当時、日本の経済界は、震災恐慌のために不景気のどん底にあえいでいた。出版界もご多分にもれなかったが、その不景気を、大量生産方式による出版でのりきろうと、いちかばちかの大賭博をうったのが改造社社長山本実彦だった。大正十五年十一月、昭和改元の一ヵ月前に改造社は『現代日本文学全集』全三十八巻の予約募集の宣伝を大々的に開始する。全巻一円という廉価が魅力的であったからだろう、山本社長の賭けはみごとに当たり、最初の予約応募数は、一ヵ月で二十三万部にのぼった。にちには四、五十万部に達したというが、柳の木の下に泥鰌は二匹とばかり、すぐあとにつづいたのが新潮社である。・・・」(p205~206)
ああ、そうなのか、そういううねりのなかで、与謝野晶子もヨーロッパ旅行へ出かけたのかと、なにやら納得がいった気分です。
さて、この本には、関東大震災の日記引用があり、地震の数日の様子が伝わってきて、余震にたいする参考になる気がしました。では引用。
9月1日(土曜日)
朝割合に早く起きて郵便物に目を通す。礼状などをしたためてゐるうちにあつといふ間に時が過ぎてしまつた。十二時近く大きな地震が来る。元禄模様の浴衣ではだしのまま、いち早く二階を降りて庭に出づ。上下動甚し。二階の損害ひどしとて、又上り見るうちに又もや大いなる震あり。驚きて庭に出づ。大家さんの主婦呼び来り、藤野家に避難す。とりあへず洋服に着かへて下駄ばきのまま。夜、空地に寝る。弟と二人にて。空に入道雲出づ。火事ひろがりつづけてゐるよし。大森あたりはと問ふても、答へるものなし。猛火に追はれる千代子さんの夢を見て夜半に目ざめる。・・・・・
9月2日(日曜日)
朝に、家にかへりたれど不安、庭の片隅にむしろを敷いて用意す。空赤く火事ひどし。逃げ支度をなす。夕刻になりてますます不安。再び空地へ逃げ、荷支度をなす。・・・・
9月3日(月曜日)
火は本所、深川、浅草、上野辺りまで来てやみたりといふ。余震しきりにて、心安まる間なし。今日始めて家の戸を明けて、荷物を積みて眠る。米その他食糧の心配あり、水なく困難。
震災ばかりじゃなくて、すこしは吉屋信子氏についてもふれておきましょう。
「かつて信子は、自分の作品が不当におとしめられていることに反撥し、『菊池寛さんがおっしゃたんだけど、通俗小説を書いている人は純文学を書こうと思えばすぐに書けるけど、純文学を書いている人が、通俗小説を書こうとしたって、すぐには書けないんですって・・・私も全くそう思いますわ』というコメントを「大阪毎日新聞」(昭和12年4月15日夕刊)に発表、物議をかもしたことがあった。・・・はからずも信子は、十五年後に、当時のことばの正しさを実証することになったのである。」(p290~291)
読んで、私の興味は、関東大震災の箇所へといきました。
たとえば、こんなところ。
「信子と千代が手をたずさえて、念願のパリに向かって旅立ったのも、下落合時代――昭和3年のことだった。ちょうど、この頃は、文壇に『洋行熱』が蔓延、秋田雨雀、宮本百合子、湯浅年子、久米正雄、横光利一、正宗白鳥、林不忘、三上於菟吉・長谷川時雨夫婦、与謝野寛・晶子夫婦、佐藤春夫など文士たちが、つぎつぎに、ソヴィエト、ヨーロッパ、アメリカ、中国へと旅立っている。大正末からはじまった円本時代が、文士たちに多額な印税をもたらしたからだった。
円本時代の口火をきったのは改造社である。当時、日本の経済界は、震災恐慌のために不景気のどん底にあえいでいた。出版界もご多分にもれなかったが、その不景気を、大量生産方式による出版でのりきろうと、いちかばちかの大賭博をうったのが改造社社長山本実彦だった。大正十五年十一月、昭和改元の一ヵ月前に改造社は『現代日本文学全集』全三十八巻の予約募集の宣伝を大々的に開始する。全巻一円という廉価が魅力的であったからだろう、山本社長の賭けはみごとに当たり、最初の予約応募数は、一ヵ月で二十三万部にのぼった。にちには四、五十万部に達したというが、柳の木の下に泥鰌は二匹とばかり、すぐあとにつづいたのが新潮社である。・・・」(p205~206)
ああ、そうなのか、そういううねりのなかで、与謝野晶子もヨーロッパ旅行へ出かけたのかと、なにやら納得がいった気分です。
さて、この本には、関東大震災の日記引用があり、地震の数日の様子が伝わってきて、余震にたいする参考になる気がしました。では引用。
9月1日(土曜日)
朝割合に早く起きて郵便物に目を通す。礼状などをしたためてゐるうちにあつといふ間に時が過ぎてしまつた。十二時近く大きな地震が来る。元禄模様の浴衣ではだしのまま、いち早く二階を降りて庭に出づ。上下動甚し。二階の損害ひどしとて、又上り見るうちに又もや大いなる震あり。驚きて庭に出づ。大家さんの主婦呼び来り、藤野家に避難す。とりあへず洋服に着かへて下駄ばきのまま。夜、空地に寝る。弟と二人にて。空に入道雲出づ。火事ひろがりつづけてゐるよし。大森あたりはと問ふても、答へるものなし。猛火に追はれる千代子さんの夢を見て夜半に目ざめる。・・・・・
9月2日(日曜日)
朝に、家にかへりたれど不安、庭の片隅にむしろを敷いて用意す。空赤く火事ひどし。逃げ支度をなす。夕刻になりてますます不安。再び空地へ逃げ、荷支度をなす。・・・・
9月3日(月曜日)
火は本所、深川、浅草、上野辺りまで来てやみたりといふ。余震しきりにて、心安まる間なし。今日始めて家の戸を明けて、荷物を積みて眠る。米その他食糧の心配あり、水なく困難。
震災ばかりじゃなくて、すこしは吉屋信子氏についてもふれておきましょう。
「かつて信子は、自分の作品が不当におとしめられていることに反撥し、『菊池寛さんがおっしゃたんだけど、通俗小説を書いている人は純文学を書こうと思えばすぐに書けるけど、純文学を書いている人が、通俗小説を書こうとしたって、すぐには書けないんですって・・・私も全くそう思いますわ』というコメントを「大阪毎日新聞」(昭和12年4月15日夕刊)に発表、物議をかもしたことがあった。・・・はからずも信子は、十五年後に、当時のことばの正しさを実証することになったのである。」(p290~291)
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