御伽草子の『鉢かづき』をひらく。
清水義範の現代語訳『おとぎ草子』(講談社「少年少女古典文学16」1992年)
に
「じつはこの鉢かづきの話は、日本のシンデレラなんていわれているのだ。」
( p89 「清水義範:おとぎ草子。ねじめ正一:山椒大夫 )
「考えてみればひじょうによく似ている。どちらも継母にいじめられて
苦労する話である。・・・
そして、シンデレラは、かまどで炊事をする役をおしつけられ、
毎日火をたくのである。風呂番をした鉢かづきと、
やらされることまで似ているではないか。
そういうわけで、シンデレラはかまどでまっ黒けなのである。
シンデレラは、『灰だらけのエラ』という名で、つまり
『灰だらけ姫』とか、『灰かぶり姫』という意味である。
鉢かづきも、そうだったのである。・・ 」( ~p90 )
はい。あまりシンデレラにかかわると、先へすすめません(笑)。
鉢かづきは、継母にいじめられ、家を出なければならなくなります。
それはそうと、はじまりでした。ここも清水義範の現代語訳で
「『河内(かわち)の国の交野(かたの)』(いまの大阪府東部)
というころに、備中守さねたかという人が住んでいた。
お金持ちで、教養があり、なんの不自由もなく暮らしていた。
その奥方は、これも和歌などの教養もあり、
月の美しさに感動する心をもった、申し分のない人であった。」
この奥方が亡くなり、継母が来てから、鉢かづきは家を出されます。
そして、川に流されたりして、ゆくあてもなく歩いているのでした。
以下は、永井龍男の現代語訳で引用をつづけます。
「・・鉢かづきが通りかかったので、中将は・・素性を尋ねると、
『 わたくしは交野の辺に住んでいる者でございますが、
母親に早く死に別れ、その上頭の上にこんな鉢をのせた
かたわになりましたが、あわれをかけてくれる者もないままに
家を出て、あてもなくさまよい歩いております。 』
・・・
『 これからどこへ行くつもりか? 』と、中将は尋ねる。
『 どこといってあてもございません。
こんなかたわ者では、だれも気味悪がって、
可哀そうにと言ってくれる人もありません 』
と言うので、中将は、
『 こういう変り者の娘がいるのも面白かろう 』
と、鉢かづきを自分の屋敷においてやることにした。
『 何か身につけた技能でもあるか? 』と、尋ねると、
『 亡き母から習いましたのは、琴や琵琶、和琴、笙、篳篥(ひちりき)
などの音楽や、万葉集、古今の和歌、伊勢物語やお経を読んだり
することばかりで、ほかにこれという能もございません 』というので、
『 それでは、湯殿の番でもするがよい 』と、中将が言いつけた。
鉢かづきは、寄るべない身であれば、これもうき世のならいとあきらめ、
今までしたこともない湯殿の火たき女として働くことになった。
家人に気味悪がられたり、なぶられたりしながら、
朝は暗いうちから夜更けまで・・・・ 」
( p53~55 「お伽草子」ちくま文庫・1991年 )
はい。ここからが、御伽草子『鉢かづき』の山場なのしょうが、
私の興味はここまでとなります。
最後は、私が印象残る箇所を、原文で反芻してみることに、
「 ・・・
『 身の能(のう)は何ぞ 』と宣(のたま)ひければ、
『 何と申すべきやうもなし。母にかしづかれし時は、
琴・琵琶・和琴(わごん)・笙(しょう)・篳篥(ひちりき)、
古今・万葉・伊勢物語、法華経八巻、数の御経(みきょう)
ども読みしよりほかの能もなし 』
『 さては能もなくは、湯殿(ゆどの)に置け 』とありければ、
いまだ習わぬことなれど、時に従ふ世の中なれば、
湯殿の火をこそ焚かれける。 」
( p169 全訳注桑原博史「おとぎ草子」講談社学術文庫・1982年 )
この学術文庫での、鑑賞で桑原氏は、こう指摘されておりました。
「 また、なにか特技はと問われて、
管弦のわざと書物による教養とを正直にいっても、
相手は実用的な技術を期待しているので、
能なしと判断されるくいちがいも、おかしい所である。
その結果として、湯殿の火を焚く運命に見舞われるのは、
悲しいことでもあるが。 」( p173 )
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