小沢信男著「東京骨灰紀行」(ちくま文庫・2012年)の
はじめの方をパラリとひらく。
はじまりは「ぶらり両国」。まず地図があり、
隅田川にかかる両国橋から、両国駅。両国国技館。下には回向院。
つぎは「新聞旧聞日本橋」。その地図は、両国橋をわたって
馬喰町・横山町。小伝馬町。
はい。この第一章と第二章をひらいてくると、
ああこれは、京都の古寺探訪の東京版なのかもと思えてきます。
残念、京都古寺の自然を期待したい向きには期待はずれですが、
『そうだ』とつづいて、両国、日本橋、千住、築地、谷中、多磨、新宿へ。
おっと、私は両国と日本橋を読み齧っただけでした。
私の経験だと、最後まで読んじゃうと、かえって黙っていたくなるのに、
パラパラ読みだと、妙に語りたくなるのでした(笑)。
では、私は行ったこともない回向院あたり。
「これぞ明暦3年(1657)陰暦1月に江戸市中を焼尽した大火の慰霊塔ではないか・・・18年後の延宝3年(1675)の追善建立でした。・・・ 」
「はやい話がそれまで隅田川に橋がなかった。
千住大橋以外には。川は重要な軍事境界線だった。
そのために火勢に追われた大群衆が、焼かれたくなければ溺れてしまった。
回向院の過去帳には・・・・
写しとりながらたじたじとなる。大火の焼死溺死者のみならず、
この江戸城下で行き倒れ、牢にぶちこまれ、殺し殺され、
ろくでもない死にざまの連中すべてを、いっそまとめてひきうけるぞ、
という大慈悲心の碑なのだな。・・・」(~p12)
「・・・この無辜の犠牲者を弔う回向院を、お詣りせずにおられようか。
そこで本堂めがけて橋を架ける・・・万治2年(1659)末に落成、
大橋となずけた。西は武蔵、東は下総、二つの国境いの大川を、
歩いて渡れるありがたさよ。そこで通称両国橋。
やがて正式名称となった。・・・」(p16)
こうして、はじまっておりましたが、
第一章の最後の方をめくれば、植草甚一。
「『植草氏』と台石に刻まれた墓。
側面に『浄諦院甚宏博道居士』とあるのが、
散歩と雑学の植草甚一の戒名です。
昭和54年(1979)12月歿、享年71歳。
葬儀のおりは多数の若者たちがここに参集し、
トランぺッターの日野皓正が葬送曲を吹き鳴らしたという。・・
植草家は、日本橋小網町の老舗の木綿問屋でした。
このお墓のななめうしろに『平田禿木之墓』がある。・・・
平田家は、日本橋伊勢町の絵具染料問屋でした。
日本橋なんだよなぁ。・・・
鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春のこの町には、
各種問屋が軒をつらねて日本中の物産を集散していた。
明治となるや文明開化の舶来品もどっとここへ。
かの丸善が日本橋なので、そこらの横丁にソロバンよりも
横文字が達者なドラ息子たちが輩出するのも、むべなるかな。
禿木コト喜一は山の手風の文化人になりすまし、
甚一はコスモポリタンの足をニューヨークへものばしたあげくに、
身まかればやっぱり両国へもどって眠っているなんて、ズルいよねぇ。
そうだ、日本橋へ行こう。 」(p26)
こうして、つぎの『新聞旧聞日本橋』へ、つづくのでした。
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