文春ネスコ編「教科書でおぼえた名詩」(1997年)の
「序にかえて」は丸山薫の詩「学校遠望」でした。
はじまりの3行は
学校をおえて 歩いてきた十数年
首(こうべ)をめぐらせば学校は思い出のはるかに
小さくメダルの浮き彫りのようにかがやいている
詩「学校遠望」の最後の4行は
・・・・・
とある窓べでだれかがよそ見して
あのときのぼくのようにぼんやりこちらをながめている
彼のひとみに ぼくのいるところは映らないのだろうか?
ああ ぼくからはこんなにはっきり見えるのに
はい。どのように『 はっきり見える 』のだろう。
その筋道を、いったい何歳になったらたどれるのか。
ということが、津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社)を
ひらいていたら、思い浮かんできまいた。そのあとがきには
「このタイトル(百歳までの読書術)をつけたのは私ではない。
本書のもとになった連載を企画してくれた『本の雑誌』発行人の
浜本茂氏である。・・・・
『百歳までの読書術』は、私にとっては
『七十歳からの読書術』とほとんどおなじ意味になる。・・・・
このさき、じぶんの読書がどのように終わってゆくのか、
そのおおよそがありありと見えてきた。・・ 」
さてっと、本文に『老人にしかできない読書』という文があり、
はじめの方を引用しておくことに。
「・・まだ少年や青年だったじぶんが大切にしていた
なんらかのイメージが、何十年かの時間が経過したのち、
思いがけず発見された新資料や大胆な仮説によって
ガラリと一変させられてしまう。
そのおどろきから、とつぜん新旧を問わない
本から本への集中的な『渡り歩き』がはじまる。・・・
『老人読書』とは、このような高齢者特有の発作的な読書パターンをさす。
なぜ高齢者特有というのか。
少年や青年、若い壮年の背後には、ざんねんながら、それから
『何十年かの時間が経過した』といえるだけの時間の蓄積がないからだ。
だったら当然、かれらにその種の読書があるわけがない。 」
(p172~173)
はい。ちょいっと、丸山薫の詩と、老人の読書とを
つなげるのは無理があるでしょうか(笑)。
でも、このように無理してもはじめてみたかった。
ということで、次につながっていきますように。
ゴミ捨てに行き 道路向いの補修中の家の壁を
ぼ~っと眺めていたら
その視界枠内に 男子中学生が 坂道を上ってきて
私は そのまま ぼ~っと壁を見ていたら
急に 男子中学生が振り向いて 直視されました。
う~ん なにがなんだか わからない(笑)
視線を感じたのでしょうね。。。
コメントありがとうございます。
その男子中学生は
素敵な女性が、こっちの方を向いている
というだけで、何だか眼差し光線を浴びたんですよ。
きっと。ヒマワリが太陽へとふりむくようにネ。
はい。そういうことにしておきましょう。
いつまで見ているんだろかと、気になったか。
けれども、普通は、誰かが見ている方向を、
自分もつい見てしまうことはよくあります(笑)。