「大正大震災の回顧と其の復興」上巻の末尾に
「編纂を終へて」という、編者・安田亀一氏の文があります。
そこに記されて、千葉県の震災誌編纂が、はかどらずにあり、
昭和6年9月「結局私にお鉢が廻って来た」(p980)とあります。
そして、編纂の安田氏は、元安房郡長・大橋高四郎氏へと
直接に会って聴きその梗概を記しております(p812~823)。
まずは、安田氏の説明がありますので、その全文。
「大震災当時安房郡長であった大橋高四郎氏は当時激震の中心たる
北條町所在の郡衙に在りて、苦き罹災の体験と共に応急及復旧措置、
内外の折衝、人心の安定鼓舞其の他に身を挺して努力した人で、
この人の体験苦心談は、傾聴に値するものあるのみならず、
変災に処する者の後日の参考ともなることと思ひ、
編者は特に同人を訪れて直接同人の口より種々の事情を聴き、
梗概を茲に録した。(編者)」
編者が大橋高四郎氏を訪問したのは、
震災から早くても8年目くらいでしょうか?
自宅で被災する午前中の様子から語り始められております。
その住いで腹を決める箇所がありました。
「先づ差当り急務なるものは、倒潰家屋の下から罹災者を救ひ出すことだ。
第二は医療だ、第三は食糧だ。交通の整理や救出には工兵隊の出動が必要だ。
役所も多分潰れたことであろう、が、今駆け付けて見ても駄目だ。
『 現場へ行っては却て現場に捉はれてよい知恵は出ない。
これは先づ此の松の木の下で計画を立てるに如かずだ。 』
とおれは腹を決めた。
やがて役所から門君と小谷君が来て役所倒潰の事情、御真影の安全なること、
家屋の下敷になった人を掘出しつつあること等を報告した。 」(~p817)
「 役所へ行ったのはかれこれ、2時間も経ってからの事だろう。 」
ここで、県庁へと急使を出すことと、救援を山間部へと頼む急使を出すこと、
それを、その人選を決めてゆきます。
最後に、ここも引用しておきたいと思います。
「 激震の当時に自宅で考へた俺の胸算用は、
現場へ来て見ると、より必要なる或るもののあることを
忘れてゐるのに気付いた。
それは何かと云ふと、人心の安定といふことであった。 」(p821)
震災中の安房郡長が、郡衙において気付いたという『人心の安定』とは、
いかようなことだったのか、それに対して郡長はどう対処していったのか、
以降は、これをテーマにして当ブログをすすめてゆきます。
それはそうと、この郡長談話の続きをもうすこし引用して終ります。
「 何しろ北條館山を通じ三千有余の家屋が倒潰し、
一千名を越ゆる人命の損傷を出し、各祖先伝来の財産を喪ひ、
流言蜚語が行はれ、海嘯が起るといふ噂さへ立ってゐる際とて、
人心は唯戦々兢々、疑心暗鬼を生ずるの有様であったのだ。
これを鎮静することは急務中の急務で、
若し処置を誤れば如何なる事態を惹起せぬとも圖られぬ状況にあった。」(p821)
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