房総の関東大震災では、北條病院が倒潰をまぬがれました。
その位置関係を見ると、
北條病院を正面に見て、その左側へと安房郡役所、さらに北條警察署があり、
北條病院を正面に見て、その右側に北條町役場がありました。
さいわい、北條病院は倒潰をまぬがれましたが、
安房郡役所・北條警察署・北條町役場はいずれも倒潰しております。
北條町の中目町長は、自宅において圧死。
吉井栄造氏の震災5周年の思い出には、こうありました。
「かの堅実な純日本式の群庁舎も大家高楼を誇った議事堂も
瞬時にして『ピシャリ』倒潰した。・・・
北條病院の庭内は見る見る内に死体重軽傷者を以て埋められた。
街は見渡す限り住家全潰して道路をおおい交通杜絶し電信電話はもちろん不通である。
夜に入るも燈火なく、流言蜚語は次から次へと伝えられ人心は戦々兢々、こうした
悲惨、暗黒、不安はひんぴんたる余震と共に数日間続いた。」
( p824 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
「青年団の来援も、救急薬品等の蒐集も、炊出の配給も、其の他一切
の救護事務は、郡衙(郡役場のこと)を中心として活動する外なかった。
ところが郡衙は既に庁舎全滅して人の居どころもない。
一日は殆ど余震から余震で、而かも吏員は救急事務に
全力を盡しても尚ほ足らざる始末で、露天で仕事をやってゐた。
事務用品などは、紙も、鉛筆も何もなかった。・・・
吏員の手で3日、漸く畜産組合のぼろぼろに破れた天幕を取り出して
形ばかりの仮事務所を造った。そして、危く倒潰を免かれた税務署から
僅かばかりの椅子を借りて来て、事務を執った。・・・・・
救護事務の中でも、第一義的なものは、死傷者の處理である。
それは警察署と密接な関係がある。警察署も矢張り倒潰して了ったことであるから、
同じ場所で執務するが便利であるので、郡吏員と警察署員とは、
郡衙の斯うした手製の仮事務所で一緒に救急事務を取扱ったのであった。
救急事務は不眠不休でやり通うした。
1日の震災直後から、2日3日頃までは碌々食事を摂らなかったが、
又大した空腹も感じなかった。蓋し極端な緊張と眼前の惨状に
空腹さへ感じなかったであろう。・・・・ 」
( p239~240 「安房震災誌」 )
「今次の震災に当て、青年団が団体的にその大活躍を開始したのは、
平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
総動員を行ひ、2日未明、郡役所所在地に向け応援したことに始まり、
遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。――
そして、青年団の第一段の仕事は、死傷者の處理であった。
同時に医薬、衛生材料食料品の蒐集であった。
2日の如きは、市中の薬店の倒潰跡に就て、
死体及び此等諸材料の発掘に大努力をいたされた。・・・・
それから、第二段の仕事は交通整理であった。
地震に打ち倒された家屋の瓦や、柱や、板や、壁などが
一帯に、道路に堆積して、通交の不能となってゐるは勿論
路面の亀裂、橋梁の墜落など目も当てられない中に、
之を整理して、交通運搬の途を拓いたのは、
実に青年団の力である。・・・・ 」
( p284 「安房震災誌」 )
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