篠田一士著「幸田露伴のために」(岩波書店・1984年)を
本棚から出してくる。
うん。これを読み幸田露伴を読もうと思った。けれど読めなかった。
露伴はダメでしたが、せめて本のおさらいだけでもしておかなきゃ。
はい。そんな思いで本をひらきます。
この本の最後には「『露伴随筆』を読む」があり、
そこで、随筆にふれている篠田氏の文を紹介してみます。
「・・小説との類縁よりは、いっそのこと、
随筆と言い切ってしまう方が、なにかと作品の内外を
手広くとらえることができるし、それだけに、一層分りよくなる。
『 小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ 』
というのは、鴎外の有名な立言だが、
随筆こそ、この定義を、かぎりなく、のびやかに
受け入れることができるジャンルだろう。
『 心にうつりゆくよしなし事 』というものの、
思索の結果の、深浅さまざまな感想にかぎらず、
作者の経験譚、聞き書き、あるいは、書物のなかから拾い採った一節と、
なんでも構わず、自由なのである。
しかも、それ以上に自由なのは、文体である。
随筆は、小説と同じく、散文で書くのを基本とするが、
詩歌をいくら引用してもよろしく、さらに、
その散文は、都雅麗文から、鄙卑俗語にいたるまで、自在に混用を許し、
それが、また、随筆を読むよろこびをいやましにする。・・・・ 」
( p204~205 )
あと、一箇所引用。
「 『 支那の文学を味はゝうといふのならば、
支那の人士の尊尚してゐる詩や文章を味はゝねばならぬのである 』
と露伴はいみじくも書いているように、
ヨーロッパ文学の本質を把握しようとするならば、
たとえ小説を捨てても詩や文章
( つまり、散文で書かれた、小説とは別種の作品群 )
を読むことが必要だろう。 」 ( p73 )
ひょっとして、まだ露伴を読める機会があるかもね。
はい。そう思いたくこの本を未読本本棚へともどす。
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