和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

むしろバカにされてた。

2023-04-08 | 本棚並べ
篠田一士の本で、私に印象深かった本は何だろう。

篠田一士著「現代詩大要 三田の詩人たち」(小沢書店・1987年)
篠田一士著「読書の楽しみ」(構想社・1978年)

はい。下世話な話からはじめましょう。
『読書の楽しみ』のあとがきにかえてで、
篠田氏は、その最後を、こうしめくくっておりました。

「坂本一亀と知合いになって、もう、四分の一世紀になるだろうか。
 長いと言えば、長い時間だったが、今度、はじめて、
 ぼくの本が彼の手づくりでできあがったのは、
 なによりも、ぼくには、うれしいことである・・・
 こいうアンティームな本をつくってくれたことが、また、一層うれしい。」

はい。編集者・坂本一亀は、最近亡くなった坂本龍一の父親。
本の最後には、

    著者  篠田一士
    発行者 坂本一亀
    発行所 構想社 

とあります。
『浜の真砂は尽きるとも』というセリフがありますが、
篠田一士の文を読むと、砂漠の真砂を前にしているようでメゲます。
そんな中、アンティームな一冊『読書の楽しみ』はホッとできます。

もう一冊『現代詩大要 三田の詩人たち』。
この中から、堀口大學をとりあげた箇所から引用しておくことに。

「 言ってみれば、最初にお話しした久保田万太郎さんの俳句における
  軽み、これをヨーロッパ風のシックな形で近代詩のなかに生かしたのが、
  詩人堀口大學の持ち味、魅力ということになります。

  この軽みというのは、日本の近代詩のなかでは全く尊重されず、
  むしろバカにされてたんですね。

  萩原朔太郎は、堀口さんの詩は大したものじゃないと言っているし、
  日夏耿之介のごときは便所の落書きのようなものだ、
  と無茶なことを言っています。  」( p110 単行本 )

こうして大正14年に出版された堀口さんの訳詩集「月下の一群」の
ギイヨオム・アポリネエル「ミラボオ橋」を引用したあとに
篠田一士は、こう記しておりました。

「今から60年も前に発表された訳詩ですけれど、
 今読んでもわからないどころか、

 多少の違和感を感じる程度の日本語さえ、全く使われていない。
 ”無窮”という言葉が、あるいは見慣れない言葉かも知れませんけど、
 あとはごくありふれた日常語ばかりですね。  」(p116)

「原詩も、またありふれた、日常的な、平易なフランス語で書かれています。」
                       ( p118)

うん。最後は、この箇所を引用しておきます。

「 今、堀口さんの60年前に出た訳詩を
  現在の読者はほとんど違和感なく読める。
  これはやはり驚くべきことです。・・・

  昭和初年といえば、朔太郎が文語調で
  肩をいからせたような詩を書いていた時期ですし、
  一面ではモダニズム、シュールレアリスム運動が出てきた時です。

  ・・・その後、四季派の三好達治などが詩壇に大きな影響を与え、
  次いで戦後詩から始まっていろいろな新しい詩人がそれぞれ
  優れた仕事をして現在に至っているわけです。

  これら複雑かつ豊饒な詩的創造の歩みを理解するには、
  それなりに時代の距りを意識しながら
  乗り越える努力をしなければならないでしょう。

  しかし、堀口さんの『月下の一群』は、
  時間の距りを乗り越えるといった必要が全くない。ですから、

  かえって不気味というか、変な感じがしないでもありません。
  が、それは変に思うほうがおかしいんです。

 『月下の一群』は訳詩というより創作詩と考えてよいと最初に言いました。
  それだけの価値があるし、またそれだけの影響を与えている。  」

                     ( p127~128 )


はい。わたしはこれだけでもう満腹。
ほかの箇所は、また今度読める時に。

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