篠田一士の本で、私に印象深かった本は何だろう。
篠田一士著「現代詩大要 三田の詩人たち」(小沢書店・1987年)
篠田一士著「読書の楽しみ」(構想社・1978年)
はい。下世話な話からはじめましょう。
『読書の楽しみ』のあとがきにかえてで、
篠田氏は、その最後を、こうしめくくっておりました。
「坂本一亀と知合いになって、もう、四分の一世紀になるだろうか。
長いと言えば、長い時間だったが、今度、はじめて、
ぼくの本が彼の手づくりでできあがったのは、
なによりも、ぼくには、うれしいことである・・・
こいうアンティームな本をつくってくれたことが、また、一層うれしい。」
はい。編集者・坂本一亀は、最近亡くなった坂本龍一の父親。
本の最後には、
著者 篠田一士
発行者 坂本一亀
発行所 構想社
とあります。
『浜の真砂は尽きるとも』というセリフがありますが、
篠田一士の文を読むと、砂漠の真砂を前にしているようでメゲます。
そんな中、アンティームな一冊『読書の楽しみ』はホッとできます。
もう一冊『現代詩大要 三田の詩人たち』。
この中から、堀口大學をとりあげた箇所から引用しておくことに。
「 言ってみれば、最初にお話しした久保田万太郎さんの俳句における
軽み、これをヨーロッパ風のシックな形で近代詩のなかに生かしたのが、
詩人堀口大學の持ち味、魅力ということになります。
この軽みというのは、日本の近代詩のなかでは全く尊重されず、
むしろバカにされてたんですね。
萩原朔太郎は、堀口さんの詩は大したものじゃないと言っているし、
日夏耿之介のごときは便所の落書きのようなものだ、
と無茶なことを言っています。 」( p110 単行本 )
こうして大正14年に出版された堀口さんの訳詩集「月下の一群」の
ギイヨオム・アポリネエル「ミラボオ橋」を引用したあとに
篠田一士は、こう記しておりました。
「今から60年も前に発表された訳詩ですけれど、
今読んでもわからないどころか、
多少の違和感を感じる程度の日本語さえ、全く使われていない。
”無窮”という言葉が、あるいは見慣れない言葉かも知れませんけど、
あとはごくありふれた日常語ばかりですね。 」(p116)
「原詩も、またありふれた、日常的な、平易なフランス語で書かれています。」
( p118)
うん。最後は、この箇所を引用しておきます。
「 今、堀口さんの60年前に出た訳詩を
現在の読者はほとんど違和感なく読める。
これはやはり驚くべきことです。・・・
昭和初年といえば、朔太郎が文語調で
肩をいからせたような詩を書いていた時期ですし、
一面ではモダニズム、シュールレアリスム運動が出てきた時です。
・・・その後、四季派の三好達治などが詩壇に大きな影響を与え、
次いで戦後詩から始まっていろいろな新しい詩人がそれぞれ
優れた仕事をして現在に至っているわけです。
これら複雑かつ豊饒な詩的創造の歩みを理解するには、
それなりに時代の距りを意識しながら
乗り越える努力をしなければならないでしょう。
しかし、堀口さんの『月下の一群』は、
時間の距りを乗り越えるといった必要が全くない。ですから、
かえって不気味というか、変な感じがしないでもありません。
が、それは変に思うほうがおかしいんです。
『月下の一群』は訳詩というより創作詩と考えてよいと最初に言いました。
それだけの価値があるし、またそれだけの影響を与えている。 」
( p127~128 )
はい。わたしはこれだけでもう満腹。
ほかの箇所は、また今度読める時に。
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