昨日の産経抄(4月2日)に
「歴史学者の永原慶二さんの『富士山宝永大爆発』によれば」
とある。それで集英社新書のその本をひらいてみることに。
この新書の「まえがき」は、こうはじまります。
「この書物は、富士山の宝永大爆発という空前の
巨大自然災害と、それにともなう社会問題の諸相を
できるだけリアルに描きだそうとしたものである。
飢餓・流亡はその日から始まり、他方では
幕府と藩、役人と商人とのあいだの権力と
カネをめぐる駆け引きも微妙かつ活発となった。
被災地民衆は追いつめられる中で、
時には村と村、時には一つの村のなかでさえ対立し、
人間不信に陥りながらも、不屈で息の長い復興の
たたかいをくりひろげていった。・・・・」(p8)
はい。真ん中をはしょって、最後の方を読むと、
そこに、気になる人物が要約されておりました。
「砂除川浚(すなよけ かわざらい)奉行
伊奈忠順(いな ただのぶ)」。
江戸時代の中頃の1707年に起きた『宝永噴火』を
この新書はあつかっております。
「・・災害は複合的にふくらみ、先の見えない困難な
状況が深まりゆく中で、救済・復興策の全責任を負って
登場したのが関東郡代伊奈忠順(いなただのぶ)であった。
忠順は砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行として
宝永5年(1708)閏1月から死去する正徳2年(1712)まで4年間
その任にあり、この間、職制上勘定奉行荻原重秀の配下にあった。」
(p253)
順を追うと長くなるので、飛ばしてゆきます(笑)。
「就任から1年半近くもたとうとする宝永6年5月から6月に
なってのことである。・・・忠順の主導による救済の具体策が
打ち出されるのは、巡検後の同年後半のことである。・・・
連鎖的に拡大した災害によって情況は日増しにきびしくなっていたが、
忠順はむしろ慎重に策をねったらしい。・・・・・・・・・・
忠順は現地で直接住民の声を聞くとともに、数々の訴えを
書面にして会所に提出させ、十分に検討した。その上で
9月に開かれた荻原重秀屋敷での勘定所内談に、忠順は
御厨地方の村々の代表3名を伴って主席し、重秀以下の
役人たちに直接、住民の苦しみの声をきかせた。
この異例の会議を経て12月、忠順は住民が切望していた
砂除金の給付を正式に決定したのである。
この措置が、御厨住民たちにどれほど明るい希望を与えたかは
推測に余りある。それは支給される砂除金の金額の問題というより、
伊奈奉行が、住民の訴えを前例のない方式で実現してくれたことが
大きな意味をもったのである。住民たちは伊奈忠順という人物の、
それまでの接した役人たちとは大きくちがう誠実さに心打たれた
のだと思われる。」(p254~255)
さてっと、この新書の本文の最後をめくると
こうあるのでした。
「幕府が全国から徴収した高役金48万両余のうち、
降砂被害の大きい駿・相・武三国へ、伊奈半左衛門を通じて
直接下付された御救金はわずかに6225両であった。
須走を入れても1万両未満である。
御厨地方の農民は自力で生きぬいたのである。
幕府の政策的判断でおき去りにされながら、
御厨農民が伊奈忠順を祀る神社をたてた・・・」(p262)
うん。伊奈神社についてはp256にありました。
以下そこを引用しておわりにします。
「御厨の被災地では時とともに、
伊奈忠順への思慕・崇敬の思いが高まっていったらしい。
おそらく被災地住民が長い長い苦難の中から
一歩ずつ明るさをとり戻してゆく中で、その気持ちは
しだいに感謝の念に高まっていったのであろう。
御厨地方では慶応3年(1867)・・・忠順を祀る伊奈神社を
設立することとし、吉久保村の水神社境内にこれを建てた。
水神社は御殿場方面から小山・谷ケ(やが・谷峨)方面に至る
古道のほとりにある。その後伊奈神社は須走村にも建てられ、
二社はそのまま今日に続いて祀られている。・・・」
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