丸谷才一・大岡信という俳諧の
水先案内人と出会えたうれしさ。
うん。こういう場合は味わってゆきましょう。
二人の対談『唱和と即興』で、大岡信さんは、
大岡】 ほんとのところを言えば、連句にわれわれが
固執しているわけじゃなくて、そういう形で、
まったく異質の人間たちが出会ったときに
見えてくるものに惹かれているのだという
ことですよ。
( p101 対談集「古典それから現代」構想社 )
はい。この対談は、初出一覧で見ると、
1974年9月号『俳句』掲載とあります。
この『見えてくるもの惹かれて』を、
もうちょい、鮮明にして見たくなる。
17年後の文藝春秋『とくとく歌仙』(1991年)。
そのはじまりで、お二人して「歌仙早わかり」
と題する対談が、興味深いのでそこからの引用。
丸谷】・・・僕は、芭蕉の歌仙は、
『古今集』『新古今集』を読み抜いたことによって
できたという感じがするんです。
『古今集』『新古今集』の編集技術を身につけたから、
それを今度はひとつの筋のある――筋っていうのかな――
三十六句の筋である展開に直す。
そうすることによって、俳諧的世界に勅撰集の富を移し変えた。
大岡】 そうですね。
歴史はある文明から別の文明へ展開していきますけど、
一時代の文明の言葉の面でのエッセンスは、
だいたいアンソロジーにまとめられるわけですね。
だから、時代がパッと変わるときに、
必ずいいアンソロジーが出てくる。・・・・
芭蕉たちがやった連句は、・・・
連句一巻のなかで、そういう文明の交替していくおもしろさとか、
あるいは受け継いできてるもののすばらしさとかを、
一句一句のなかで現してるところがあるんですね。
全体としては、連句の技術とは編集の技術だと思うんです。
丸谷】 そうです。
大岡】 編集という技術は、ひとつの文明を完全に集約して、
次の時代に送り込む技術ね。
だから広い意味でたとえば
藤原俊成は見事な編集者だった。
藤原定家は見事な編集者だった。
『古今集』のいちばんの中心だった紀貫之は、
平安朝初期の見事な編集者だった。
そういえると思うんです。
芭蕉は、元禄時代に身を置きながら、
それ以前の文明の流れを、
ある意味で見事に編集している気がします。
丸谷】 そうそう。
ある意味でいうと批評家なんですね。
大岡】 最高の詩人が、最高の批評家だった。
丸谷】 ・・・・そのへんのところが、
芭蕉の歌仙がなぜよくて、それ以後の歌仙がなぜ
つまらないかという決定的な理由としてあるんじゃないか。
大岡】 ある時代を大きくとらえて、それに批評的に対して、
しかも対してる自分は創作者であるということね。
何種類かの自己を、同時に自分のなかに入れてた人
・・・・・・・
( p40~p41 )
はい。お二人して、芭蕉の歌仙に惹かれるその魅力が
『歌仙早わかり』で、よりわかってくる気がしてくる。
そんな、17年後にして『見えてくる』対談なのでした。
うん。これで歌仙を語るひろがりのなかで、
編集者にも、自由気儘に登場してもらえる。
『どこでもドア』ならぬ『どこでも歌仙』。
そして柳田国男の『木綿以前の事』に戻るきっかけをいただきました。
固くなった頭と、小さな文字とに奮闘しそうです。
感謝です。
コメントありがとうございます。
たしか、『木綿以前の事』を取り上げたのに、
いつか、溶けだしたアイスクリームのように、
ほかの、場面へ滴ってゆくような心もとなさ。
そこへ、keiさんからのコメントが届きました。
うん。ありがたい。keiさんの定点観測へ期待。
あと、『小さな文字と奮闘しそう』とあります。
私は、コピー機で拡大して、A4をA3にひろげ、
数ページずつ読みます。ちょくちょく寝ながら。
柳田国男の文は、大きな文字がよく似合います。
そこから連想のパン種が膨らんでゆくようです。
くれぐれも小さな文字との奮闘は止めましょう。
すこしでも、横着できる楽しみをみつけながら。
はい。とりとめなくなりました(笑)。