和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ブログと知的生産活動。

2023-02-08 | 古典
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は、
毎回ひらくと、あたらしい発見があるのですが、今日は、
読書論に触れ、知的消費と知的生産を腑分けしている箇所から引用。


「 今日おこなわれている読書論のほとんどすべてが、
  読書の『たのしみ』を中心にして展開しているのは、
  注目してよいことだとおもう。

      今日、読書はおもに知的消費としてとらえられているのである。

  ・・・知的であれ、それ以外であれ、消費はべつにわるいことではない。

  知的生産とは、知的情報の生産であるといった。
  既存の、あるいは新規の、さまざまな情報をもとにして、
  それに、それぞれの人間の知的情報処理能力を作用させて、
  そこにあたらしい情報をつくりだす作業なのである。

  それは、単に一定の知識をもとでにしたルーティン・ワーク以上のものである。
  そこには、多少ともつねにあらたなる創造の要素がある。
  知的生産とは、かんがえることによる生産である。  」

         ( p10~11 「知的生産の技術」の「はじめに」 )

何回か、読んだはずなのに、そのたび、すっかり忘れていて、
何度も、新しい読み方を、読む方に想起させてくれる楽しみ。
はい。もうすこし続けます。

「  こういう生産活動を業務とする人たちが、
   今日ではひじょうにたくさんになってきている。

   研究者はもちろんのこと、報道関係、出版、
   教育、設計、経営、一般事務の領域にいたるまで、

   かんがえることによって生産活動に参加している
   人の数は、おびただしいものである。

   情報の生産、処理、伝達、変換などの仕事をする産業を
   すべてまとめて、情報産業とよぶことができる・・・・

   そして、情報産業のなかでは、とくに知的生産による部分が、
   ひじょうにたいせつであることはいうまでもない。   


   ・・・・・・
   知的活動が、いちじるしく生産的な意味をもちつつあるのが現代なのである。
   知的生産ということばは、いささか耳なれないことばだが・・・
   
   人間の知的活動を、教養としてではなく、積極的な
   社会参加のしかたとしてとらえようというところに、
   この『知的生産の技術』というかんがえかたの意味もあるのではないだろうか。

   ・・・・・そういう人たちの範囲をこえて、すべての人間が、
   その日常生活において、知的生産活動を、たえずおこなわないでは
   いられないような社会に、われわれの社会はなりつつあるのである。」


はい。『知的生産の技術』は1969年に新書として発売されております。
何か、しごく真っ当で、正確な大風呂敷を聞かされている気がします。
引用した文のつぎには、こうあります。

「  社会には、大量の情報があふれている。
   社会はまた、すべての人間が情報の生産者である
   ことを期待し、それを前提としてくみたてられてゆく。

   ひとびとは、情報をえて、整理し、かんがえ、
   結論をだし、他の個人にそれを伝達し、行動する。
   それは、程度の差こそあれ、みんながやらなければならいことだ。 」

         ( ~p12 「知的生産の技術」の「はじめに」 )

読み直すたび、あらたに違うことを思い浮かべるのですが、今日は、
引用した最後で、gooの皆さんのブログを思い浮かべておりました。


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