ある新聞の一面コラムは、
こうはじまっておりました。
「毎日、コラムを書く。
心の動くような話が、
そうそう毎日見つかるわけではない。
・・・・・」
はい。このコラムの、
後半、全文を引用。
「『道楽を人のほむるや春の風』といった
句を作るはなし家もいた。道楽は
道に楽しむと書くそうですが、
道に落ちると書いても道楽です。
といったマクラを振っていつの間にか
本題にはいった。円生は
『私は芸人で、芸術家じゃありません。
別に術を使いませんから』といっている。
死んだ志ん生は、
政府が勲章をくれるといわれ
『わたしゃあ、そんな大それたことした覚えはねぇ』
とごて気味だった。
芸人はうまければよいのだ、
という自負があったのだろう。」
はい。途中ですが、昨年ユーチューブでは、
愛知トリエンナーレと
広島トリエンナーレの話題が
事実に即して指摘されておりました。
県と市と文化庁の補助金を
もらいながらの芸術の自由だそうでした。
その芸術のなかに、昭和天皇の写真を
ガスバーナーで燃やして、そのあと、
灰を靴で踏んづけている映像まで含んだ。
そういう、昨年の芸術騒ぎの
そのあとに、今回のコラムを読むと、
なんだか、芸人落語が聞きたくなる。
もどって、コラムの終盤を引用。
「のんべえ亭主の落語がある。
べろべろで帰ってきた亭主をつかまえて、
『この上げ潮のゴミめ!』とかみさんがかみつく。
『それは何だ』
『途中で、どこにでもすぐひっかかっちゃうから、
お前さんは上げ潮のゴミだよ』。
亭主はタンカを切る。
『おめぇはゴミだ、ゴミだっていうが、
ただひっかかってるんじゃねぇ。
ゴミにはゴミのちゃあんとした了見があって、
ひっかかってんだ』。
ゴミの気持ちを代弁するところに、
芸人の心意気があった。」
はい。このコラムは
昭和50年4月16日のもの。
作者は、深代惇郎。
単行本になった際に、
題して『ゴミの了見』。
ここは、坪内祐三著「考える人」(新潮社)から
深代惇郎の箇所をとりだして、引用。
深代惇郎が担当していた
朝日新聞の名物コラム『天声人語』は
1973年2月~1975年11月1日。
その頃の坪内祐三氏は、
中学三年生(正確にいえば中二の二月)から
高校二年生にかけてでした。
この3年間だけの天声人語をとりあげながら、
坪内祐三氏は深代惇郎を
『過去の人として忘れてしまうべきではありません』
(p124)としております。
以下に引用。
「今の中学、高校の国語(現代国語)の授業方針は
どうなっているのか知りませんが、当時、私の中学、
高校生時代には、国語力をつけるために『天声人語』を
読むことが奨励されていました。例えば夏休みには、
毎日の『天声人語』についての二、三百字程度の要約が
課題(宿題ではなく課題だったと思います)で出されました。
私が『天声人語』を熱心に読むようになったのは、
そういう教育方針に導かれてのことだと思います・・・。
それがたまたま深代惇郎の担当期間に当っていたのですから
・・・それはとても幸福なことでした。
しかし、その結果、『天声人語』イコール深代惇郎レベル
の文章という印象が体に深くしみついてしまったのは
不幸なことでした。
それ以後の『天声人語』はろくなものじゃない。」
(~p125)
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