和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

去年(こぞ)今年

2020-01-08 | 詩歌
1996年に岩波文庫から上下巻の
「虚子五句集」が出て、高浜虚子の俳句をパラパラと
手軽に気軽にめくってゆくことができるようになりました。
そういう、下地があったせいか、
昨年古本で、稲畑汀子著
「虚子百句」(富士見書房)があり、買っておく。
新年になって、本をひらくのが億劫なときに、
俳句を見るのは楽しい(笑)。
こういう時に、俳句がしみます。

「虚子百句」にある高浜虚子年譜をめくる。

明治7(1974)年松山市生まれ。
明治25(1892)年18歳
「4月、伊予尋常中学校卒業。9月から
京都第三高等中学校に入学することになる
この間に帰省中の子規を訪ねてきた夏目漱石に
紹介される。9月、第三高等中学校に入学。
京都に下宿住まいをする。」
明治26(1993)年
「・・12月、虚子は小説家を志し、
学校を止める積もりで東京の子規の
ところに転り込む。」
明治27年
「5月、小説の書けない虚子は落胆し、
第三高等中学校に復学しようと京都に
・・・・7月、学制変革により・・仙台第二高校へ
と転校となる、9月、仙台に赴くも一カ月で
・・・退学し、子規を頼って上京し放蕩生活を送る。」

肝心だと思えるのは
明治28年でした。
「5月、日清戦争に従軍記者として中国に渡った
子規は帰りの船で喀血、京都にいた虚子は駆けつけ、
神戸・須磨と看病にあたる。この間、
子規から後継者になることを要請されるが、
あいまいな返事をする。12月、小康を得て
東京に帰った子規から道灌山に於いて
子規の後継者になるよう膝詰め談判をされるが
拒絶する。」

うん。高浜虚子の出航前夜というところでしょうか。
私に興味深いのは、東京と京都。
そして、俳句と高浜虚子との距離。

もどって、
稲畑汀子氏が一句ごとに解説を書いている
「虚子百句」から、お正月ですから、この句の

  去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの

稲畑汀子氏の解説は、こうはじまります。

「昭和25年12月20日、虚子76歳の作である。
『12月20日、新年放送』という短いぶっきらぼうな詞書がある。
・・・・新年のラジオ放送のために鎌倉虚子庵での句会が
録音された。掲句はその中で虚子が出句したものである。」

うん。これが終戦から5年目の句だとわかります。
中頃にこうもありました。

「この句は鎌倉駅の構内にしばらく掲げられていたが、
たまたまそれを見た川端康成は背骨を電流が流れたような
衝撃を受けたと言っている。感動した川端の随筆によって、
この句は一躍有名となった。」

最後には、高浜虚子76歳の健康状態が
記されていて参考になりました。

「この句の少し前・・・・12月13日のところに

  舌少し曲り目出度(めでた)し老の春

という句が収録されている。
昭和25年12月25日の虚子『消息』を見ると、
『また少し頭を悪くして二週間ばかり寝て居りました。
左の手足に少し異常を感じ、舌がまた少し曲ったくらいの
ことでありました。手足の故障はすぐになほり、
舌も昨今ではもうほとんどなほりかけてをります』とある。

そして昭和26年の3月から虚子は『ホトトギス』雑詠選を
長男年尾に譲った。・・・」(p195~197)

ちなみに、終戦直後昭和21年の11月に桑原武夫が
雑誌に『第二芸術ーー現代俳句について』を発表。

ちょっと、うる覚えで申し訳ないのですが、
虚子はこの時に、俳句はもっと格下だと思たのに、
第二芸術とは、ありがたい・・・というような
コメントをよせていたと思います。











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2 コメント

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汀子さん (きさら)
2020-01-09 08:15:25
わが市の市報は
汀子さんの 一面写真と
見開きインタビュー記事で スタートです。

虚子記念文学館にも
一度だけ 訪れたことがあります。

私は俳句とは無縁ですけれど。。。


返信する
詩たち俳句たち。 (和田浦海岸)
2020-01-09 09:26:20
終戦後5年目の鎌倉駅に
掲げられていた虚子の句。

岩波文庫「虚子五句集」(上・下)の
解説文は大岡信でした。そこに

「『短いことばの力』を
  痛感させてくれた人」

として高浜虚子が語られておりました。
返信する

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