銀閣寺。
2020-03-01 | 京都
本を読み通せない。
小さい頃から、私はそうです。
それを困ったことだと思ってました。
でもね。60歳を過ぎても、そうだと(笑)、
もう発想をかえなきゃと、思うわけです。
すぐ「困ったことだ」には、結びつけない。
こうすれば、だいぶ気が楽になります。
昨日、古本をひらいていたら、そうだと、本棚から
ドナルド・キーン著「足利義政」(中央公論新社)を
とりだしてくる。これも買って、読まずにあったもの。
はい。さっそく京都の関連でひらく。
単行本初版は、2003年とあります。
「あとがき」に、こんな箇所がある。
「40年前に、京都の埃っぽい古本屋で、
芳賀幸四郎の『東山文化の研究』を300円で買ったことがある。
買い得だと喜んだが、実は一度も中身を覗いたことがなかった。」
うん。なんだか面白そうなので、
序章をひらくと、こちらにはこんな箇所。
「・・・誰であれ東山時代について書こうとすれば、
芳賀幸四郎の非凡な作品の前では色あせてしまう
ことを覚悟しなければならない。この時代の
文化に関する芳賀の研究を読んで、この上さらに
何を付け加えることができるだろうかと思う時がある。
しかし私は・・・・・私自身の個人的関心に導かれながら、
この破壊と創造が独自の結合を見せた一つの時代に何か
新たな側面を発見できるかもしれないことを願うのである。」
(p19)
はい。これが序章の文の最後の箇所でした。
次に、パラリ読みでひらいた箇所を引用。
「室町時代の有形の文化の多くは、すでに消え失せてしまっている。
応仁の乱と戦国時代の乱世は、寺や御殿、その他の建築物の大半
を破壊した。銀閣寺の中でも二つの建物は奇蹟的に戦火を免れたが、
ほかはすべて天文17年(1548)の戦乱のさなかに破壊された。
残存する建物ー銀閣と東求堂ーは数度にわたって改修され、
多少の模様替えもあった。しかし、本質的に二つの建物は
変わっていない。『同仁斎』の中に立つと、義政によって
執り行われた茶の湯を難なく想像することができる。」(p138)
このあとに、ドナルド・キーンさんは
茶の湯の道具を一堂に集めることは可能かもしれないけれど
「しかし、その必要はない」と語りかけます。
高価な骨董も必要ではない。
中国の絵画も「これもまったく必要がない」。として
「肝心なのは、茶室が醸しだす雰囲気そのものである。
もしタイムマシーンのおかげで
義政の時代の茶の湯の集まりに参加できたとしても、
おそらく我々を驚かせるものは何もないだろう。
伝統そのものが、そのままの形で残っているからである。」
(p139)
うん。これだけだと引用が舌足らずになる(笑)。
もうすこし引用を重ねます。
「現代の日本で使われているような、
半透明の紙を通して明かりを中に入れる障子
(明障子・あかりしょうじ)は、平安時代の日本では
まだ考案されていなかった。しかし銀閣寺の二つの
残存する建物の一つ、東求堂の茶室『同仁斎』には
障子がある。障子はおそらく本来は部屋の一隅に
ある机の上に明かりを取り入れる仕掛けだったろうが、
後世の日本建築にとっては欠かすことのできない特徴となった。
『同仁斎』に足を踏み入れた時、なぜ我々が親しみを覚えるのか、
障子はその理由を解き明かしてくれる。障子は、義政の時代から
日本でどれだけ多くのものが変化したかを忘れさせてしまう。
四畳半の茶室『同仁斎』は、日本中いたるところの寺や
個人の家にある同じような無数の部屋に似ていて、それは
この茶室があらゆる部屋の原型であるという簡単な理由による。
16世紀以後に建てられたあらゆる和風建築は、
この部屋の建築様式に負うものが多い。
障子、違い棚、四畳半の茶室、天井、四角い柱、机、
そして花や工芸品を飾るために配された空間は、いずれも
義政の山荘で決定的な表現に達した書院造の建築の特徴である。
仮に好んで鉄筋コンクリート造りのマンションに住んでいたとしても、
日本人であればほとんど例外なく茶室『同仁斎』に足を踏み入れたとき、
『家に帰った』ような気がするのではないだろうか。
この建築物は、まさに日本の生きた文化の一部をなしている。
・・・・」(p136~137)
このあと、銀閣寺の庭へと及ぶのですが、
はい。引用は、ここまで(笑)。
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