京都を思うと、本の意外な箇所に興味をもちます。
ドナルド・キーン著「足利義政」(中央公論新社)。
その本のはじまりが興味深い。
「昭和28年(1953)、初めて京都に住んだ時、
よく近くの等持院(とうじいん)まで出かけた。
住まいの隣が学校で、そこの子供たちの喧騒
から逃れるためだった。
寺は当時、打ち捨てられたも同然で、
絶えて僧を見たことがなかったが、
聞くところによると同じ臨済宗天竜寺から
毎週一人が来ているとのことだった。
寺で会った人間と言えば、大学受験に備えて
勉強している数人の若者だけだった。
寺は荒れ放題で、ひょろ長い雑草が
建物や門の屋根のいたるところに伸び、
有名な狩野山楽の作と伝えられる襖絵は
染みで汚れて破け、特に金具のまわりがひどかった。
ここで訪問者を見たという記憶はないが、
近くの竜安寺の名高い石庭は、当時でさえ
内外の観光客がひっきりなしに訪れていた。
等持院(とうじいん)は、雑音その他に邪魔されず
に勉強するにはもってこいの場所だった。」
はい。これが序章のはじまりでした。ちなみに、
序章の題は「東山時代と燻し銀の文化」。
どなたも、その時代その時代の京都とすれ違う、
のかもしれないなあ。そんなことを思います(笑)。
ところで、司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談に
「日本人と日本文化」(中公新書)がありました。
この新書の「はしがき」は、司馬さんでした。
三回。場所をかえながら対談したようです。
そこを引用。
「寒い日に、われわれは大和の平城宮址で出会った。
それが最初の出会いで、夕刻から奈良の宿で酒を飲んだ。
二度目は京都の銀閣寺で会った。参観者がいなくなって
しまった夜で、銀沙灘のむこうの紺色の空に片鎌の月が
あがっていた。まるで芝居の書割のようで、中央公論社が
わざわざ月を打ちあげたのではないかとおもわれるほど
におあつらえむきの風景であった。
三度目は、江戸末期の蘭学の流行を象徴する大阪の
適塾の赤茶けた畳の上で会った。そのあと『丸治』と
いう船場の小さな料理屋の二階で話した。・・・」
なるほど、43頁には銀閣寺の部屋から二人して
月を見上げている格好の写真があるのでした。
司馬】 ・・実を言うと、私はきょうはじめて銀閣寺を見た
わけなんです。もっともかなり前に一度きて門前にいる
坊さんが商売商売していて不愉快だったものですから
大げんかをいたしまして、それっきりでした。
それで今夜はじめて見たら、
たまたま状況がよくて、三日月がかかっていまして、
キーンさんが晴れ男なのかなにか知らんけれども、
さっきまでかかっていた雲がスッと晴れました。
そして月光といえば淡い月光のもとで見る銀閣
というのは、美といえば完璧な美みたいな感じがしました。
そして、これはただの人間がつくったんじゃない。
なにか生身と断絶したやつがつくったにちがいない
という感じがしました。・・・」(p48)
うん。いいなあ。「月光のもとで見る銀閣」なんて
そんな夢のようなツアーがあるものでしょうか?
せっかく、二冊をならべたので、
この新書「はしがき」から引用。
「『キーンさんに会って対談しませんか。』
と私にすすめたのは、中央公論社の会長
嶋中鵬二氏であった。私は最初、それほど
憂鬱なことはありません、とことわった。
・・・・嶋中さんに虫のいい条件をもちだした。
・・・・私はさらに嶋中さんにたのんだ。
『偶然というものが作為的につくれるものなら、
そのような条件をつくってください。つまり
日本人と日本文化について関心をもっている
同年配の人間二人が、ふと町角で出くわして、
そこはかとなく立ちばなしを交わした、という
ふうな体(てい)にしてくださるとありがたいです。』
そういうと、キーンさんのほうでもよくわかってくださった。」
司馬遼太郎さんは1996年2月12日に亡くなります。
ドナルド・キーン著「足利義政 日本美の発見」は、
単行本の最後に、こうありました。
「本書は、『中央公論』2001年4月号から2002年3月号まで
連載された『足利義政と銀閣寺』に加筆訂正をほどこした
ものです。」
はい。この単行本の「あとがき」は、こうはじまっておりました。
「『明治天皇』の連載を終えた少し後、当時中央公論新社の
会長だった嶋中雅子さんと話していたら、次の本を是非
社のために書いてくれ、と頼まれた。
連載が7年にもわたる長大なものだったこともあり、
すぐには乗り気になれなかったが、一応
『どんな本がいいでしょうか』と訊ねたら、
『日本の心はどうでしょう』という御返事が返ってきた。・・・」
(p233)
はい。本のまえがきと、あとがきとで、私は満腹。
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