昭和8年に編纂された本の編纂者あとがきに
「・・・電車で本所の被服廠前を通るにも、
私は心中に黙祷することを忘れないのである。 」
という箇所がありました。
この本の題名は『 大正大震災の回顧と其の復興 』
そのあとに、千葉県庁社会課内・千葉県罹災救護会とあります。
編者の安田亀一氏の「編纂を終へて」のはじまりは
「 千葉県に何の関係もない私が、その震災記録を編纂することになった。
而してそれが災後8年も経ってゐる(引受けた時)・・・・・
・・・このことを甚だ奇縁とし、且つ光栄とするものである。
あの当時私は大震災惨禍の中心たる帝都に在って、
社会事業関係の仕事に従事してゐた。
而も救護の最前線に立って、
一ヶ月程といふものは、夜も殆ど脚絆も脱がずにごろりと寝た。
玄米飯のむすびを食ひ水を飲みつつ、
朝疾くから夜遅くまで駆け廻った。
頭髪の蓬々とした眼尻のつり上った
垢まみれの破れ衣の人々が、右往左往する有様や、
路傍や溝渠の中に転がってゐる焼死体の臭気が、
今でも鼻先にチラついてゐる。
電車で本所の被服廠前を通るにも、
私は心中に黙祷することを忘れないのである。
そんな関係で、ここに大震災の記録を綴ることは、
何か私に課せられてゐる或る義務の一部を
履行するやうな気がしてならない。 」(p978~979上巻)
このあとに、こうあります。
「 一体、本県で震災誌編纂のことは震災直後に定った方針であるらしい。
が、種々の支障から今日まで之を完成してゐなかった。
既に県の書類なども保存期間が切れて廃棄処分をしたものもあり、
又やがてその期間に達するものもあって、時の経つと共に、
だんだん資料が散逸し、折角貴重な文献が喪はれて行く処があるので、
誰も早く記録を取纏めて置き度いとは思ひつつも
知らず知らず時期を逸した態であった。・・・・・
・・・さうした事情の推移から岡社会課長の時代に
震災義捐金の残で罹災救護会なる組織が出来、
その団体の一事業として震災誌を編纂することとなった。
・・・・永野社会課長の時代になって、
いつ迄も延々にすることも出来ないので、
結局私にお鉢が廻って来た。・・・・
それは昭和6年の9月、秋風の立ち初むる頃であった。 」
( p979~980 上巻 )
うん。最後にここも引用しておくことに
「 昭和6年10月、私が本冊子の編纂に指を染めてから
早や1箇年10ヶ月になる。
・・・内容も亦増加して、千頁の予想が2千5百頁になった。
・・・やれやれこれで私の心に負はされた義務の一部が解かれたのだ。」
( p984 上巻 )
この資料と『安房震災誌』とで、8月に語る『安房郡の関東大震災』は、
語りは心許なくっても、だんぜん厚みのある資料内容の紹介となります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます